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12 juillet 2018
 
何年たったのでしょうか?
 
打ち水

あまりに暑いので、庭に打ち水 フランスにはない習慣ですが、湿気の多い日本の昔からの知恵なんでしょうね 

Citron

ウィーンに住む友人が  プレゼントしてくれた油絵。テーブルにおかれた一つのレモン。こんな趣味を持っていたことを知らなかった。素朴で温かいタッチに彼女らしさの感じられる素敵な絵

しばらくぶりにペンを取ります。多分、このサイトが今も存在することを、覚えてくれている人は、ほぼいないのではないかと思う。それほど、間が空いてしまった。  その間に世の中の流れが相当変化したという実感があります。 ちょうど、私がホームページという形で、自分の見たこと経験したこと、感じたことなどを遠くに住む家族に知らせたいという思いで始めたのが、もう16年も前のこと。そして、書くことに少し抵抗を感じ書けなくなって6,7年がたちました。その間に、ブログからTwitter、FaceBook instagram と、ごく一般の人が、不特定多数の人にむけて発信することが、今やごく当たり前のようになった今 思うことも様変わり。一番面食らうのは、そのスピードである。欲望に潜んでいる人間の持つあおるような、刺激がどうも、ストレスを生んでいるのではないかとそんなふうに思う。今、こうして再びペンを持つきっかけをもらったのは、何を隠そう、このサイトを始めた頃に、私の書いたことに反応して下さったことで繋がった人との初対面がつい最近、実現したことなのです。同じパリに住みながら、15年近く、やり取りはあっても、お目にかかることがなく、お互いの距離感を保ちつつ 、心のどこかに相手を思う気持ちを持ち続けられたのでしょう。あの頃に出会っていてよかった、とお互いのことを語り合った時間は、どこまでも心地よく、心の中から癒やされる忘れられないものになりました。久しぶりにここに書き始めて、FB や ブログに書くのとは、全く違う、安堵感に少し驚いています。自分のスピードで、書きたいときに書く、気まぐれさが自分には一番会っているんだなと。

今 ワールドカップがロシアで行われ、夕べの試合で 決勝で対戦する相手国がクロアチアに決まったところ。14 juillet の翌日 15日の日曜はフランスは熱い空気に包まれることでしょう。決勝くらいは、全部観戦してみようかな。。。

 
       


30 janvier 2012
 
ご無沙汰していますが 元気です
 
les fraises

赤い色が 台所にあると 元気がもらえる気がする。トマトやパプリカもそう。太陽の恵み そのものだから。 

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手術後、6時間ででた病院食 鱈のムニエル ニンジンのグラッセ トマトサラダに チーズ フルーツカクテル ヨーグルト パン ドゥ カンパーニュ さすが、おフランスなメニュー 内臓を切除している割にすごいボリューム さすがの私も 半分くらいしか食べられなかったけど、完全な普通食だった



「人は 死ぬようにできている」

すごく、大胆な文章の中に、ものすごく深いものを感じさせる。誰にでも書ける文章ではない。あるサイトで 書かれていた文章の一部。

すごく筆まめだった私も、本当にかけなくなってしまった。書かなかった、書けなかった、書き始めても続かなかった、書きたくなかった、それどころではなかった、言葉にできなかった こんな感じだった。今は それが山を越えたのかはわからないけれど、今日見つけた この短いフレーズのパンチにやられてしまった。わかっている当たり前のことでも よいタイミングで 耳にすると本当に 目が覚めるような感覚になるものだと思う。 それにしてもすごい文章だなー。それなりに楽しいこと大変なことがありながらも続いていたことが、途切れてしまうくらい私にとっては大きな壁だったのだなと 思う。でも、きっといつかまた普通に書きたくなるまで、無理もしなかった。そんな状態でもここに立ち寄ってくれる人がいることだけは、わかっていたし、どこかで 励まされているように感じられた。この場を借りて、ほんとにありがとう。

この左の写真サイトに載せようと思ったのが去年の初夏。そのまま放置状態で、今見ると季節外れもいいところ 我ながらあきれてしまう。言い訳めいたことを書いても、つまらないので、最近のことなどをちょっと。去年、ある日突然腹痛に襲われ、その痛み方に不安を感じたので、救急病院に行ったら、8時間かかった検査の結果 胆石が見つかった。フランスに移り住んで10年以上もたつとこちらでの普通の食事も慣れたとはいえ、やっぱり きついなーと感じている矢先だから、胆石が見つかったと聞いて、それは 充分あり得ることだと思った。家に戻ってネットで日本語 フランス語でその症状と対処の仕方を調べると、昔と違っていまは簡単な内視鏡を使った手術で胆嚢ごと切除してしまうのが一番よいとのこと。ドクターに言われたとおり、とっちまいましょう! ということでちょうど2週間前入院し手術なるものを経験した。実は これが私の人生初めての入院。心配よりも ワクワクする感じだった。さすがに手術翌日に退院した日は、いつもより3倍は遅いスピードでしか歩けなかったし、さすがに 食事ものどを通らずだったが、1週間後には見事に復活できているこの現在の医学に驚きを感じずにはいられない。おなかには 蚊に刺されたような4つのポチッとしたあとがついているけど、これは間違いなく跡形が消えてなくなる程度のもの。おなかの中はきっとこの辺が胆嚢だったのよね!という場所が、心持ち突っ張っていて、私の存在を忘れないでいて欲しいと 言っているみたいだ。おもしろいのは、普段も内臓というのは、人の動きに合わせて微妙に体内を動いているんだろうけど、胃以外は 腸も肝臓もあまり区別できないから意識もない。それがこうして手術で切除すると、わっ!ここが胆嚢だったのねというのがわかるんである。こういうのは実に新鮮である。ついでと言ってはなんだけど、この胆嚢の手術を内視鏡ではじめて行ったのがここフランスのお医者さんだったらしい。それ以降世界中で行われるようになったらしい。今思えば、ドクターが私に手術しかないと自慢げに聞こえたのもそういう誇りがあったからなんだろうか。

久しぶりに書いた内容が 手術 なので あまり明るいニュースでもないのですが、すこぶる元気なので ご心配なく!

 
       

11 mai 2011
 
当たり前のこと 
 

じゅうぶん帰国の準備に取りかかれる予定だったはずなのに、結局、落ち着かないまま、いつもとあまり変わらない状態で、飛行機に乗ることになってしまった今年の里帰り。地震から12日後の3月23日にパリを発った。地震後、はじめの2,3日、日本から遠く離れたフランスにいる私も ネット上で、時差のないありとあらゆる情報を目にし、いい意味ですごい世の中になったものだと思った。でもそれもつかの間、重大な問題もどうでもいいような独り言も同じレベルで入ってくることに混乱し、不快感を感じるようになったのは、私だけではなかったようだ。今も相変わらず、独り言レベルの情報は存在するようだが、紛らわしくなるような個人の言葉が、少なくなったような気がする。ずいぶん、すっきりした印象がある。わずか10日あまりの間に、ものすごくたくさんのことを同時に目の当たりにした。整理しきれないままそれぞれの感情がむき出しになるような緊迫した状態が続いていた。ほんとうにこれからどうなるんだろう、誰しもが思っていることだと思う。

 
変な言い回しになるけど、「あたりまえのこと」とは、そのことを話している環境において、あたりまえのはずのことがあたりまえでなくなったときにその意味が深まるのだと思う。これからどうなるんだろう・・なんて、誰でもがふと思うことなのに、今はその緊迫感は 明らかに違っている。こんな大きな出来事が日本に起こり、いいことも悪いことも明るみになって、「生きていること」をいろんな意味に受け止めて、「私と家族」であったり、「私と社会」「私と夢」みたいなもののリアルなイメージを書き直している気がする。ついさっき、「地震から2ヶ月」というサブタイトルで こちらフランスの テレビ放送があった。はっきりと 外から見た人間が映し出す映像が、私が約1ヶ月半日本に滞在して目にしていたものとは、違っていた。当然と言えば当然かもしれない。日本では淡々と起こっていることの事実を伝えているのに対して、かなりドラマチィックなつくりかたで 興味深かった。日本では放送しないだろうと思われるシーンもたくさんあったりする。こんな書き方をすると日本にいる人は見てみたくなるかもしれないけど、見なくていいと思う。ほんとうのことはその場所でしかわからないものだと思う。日本にいた私がフランス人の中で感じることと、東北で被災した人が 被災していない人に対して思うことは同じだろうと思う。ただ、ものごとを解決して行くには、その場所にいる人間だけでは冷静に判断しきれない問題がたくさんあって、まわりの力が本当に必要になってくる。小さな夫婦喧嘩でも、同じようなものかもしれない。日頃から「考えること」と「行動」のバランスがとれていないと、冷静さというのもはなかなか保ちにくいものなんだろう。
 
4月に入っても、寒い日が続き、例年より遅めだった桜も滞在中に拝めた。思い立って、最近知り合った方が老舗のうなぎ屋を淀屋橋の川沿いでされているので、両親と一緒に行くことにした。ここの鰻は関西には珍しく江戸前の蒸してから焼く方法で、鰻のうまみを充分に閉じ込めながらも脂っこさがなくふんわりとしていて、ほんとに美味しいのだ。来年、米寿を迎える父と4歳下の母も、普通に電車に乗って外出できることに感謝せずにはいられない。中之島公園に咲く満開の桜を楽しみながら、しばしの散歩。そして、待望の鰻重を堪能した。昔、南で一人住まいをしていた頃には、自転車でよくこのあたりを散策したものだ。懐かしい。あまり長時間二人を連れ回すのも気が引けたけれど、ちょうど、淀屋橋から出港している大阪城のお堀を回る観光船が頃合いの時間にあったので予約を入れておいた。これが、思いの外楽しかった。父は大阪生まれの大阪育ちで、昔の大阪のことはもちろんよく知っているらしかったが、それほど細かく話を聞く機会もなかったのが、船からの光景を見て、父の口から出てくる話はどれも知らないことばかりで、昔の記憶が次々とよみがえる様子だった。なぜか、私は人の幼かったときの話を聞くのがかなり好きなようだ。言葉や話している表情を掛け合わせて、その人の「その頃」を想像してみる。その人にしか話せない目に見えない世界を垣間見ることができる貴重な感じが、どんなに小さなこと、いや 小さいな何でもないことであればあるほどその刺激が私には大きく感じる。たとえば、そのとき母親が自分の右側にいたとか、何色の服を着ていたとか、そんなことがすごく刺激的に思える。思い出話に夢中になっている時のその人には、聞いた話や読んだ話にはない「本物」の香りが漂っている。その空気を一緒に味わえるのが好きなんだろうな。やっぱりちょっと変わっているのかな、わたし。
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大阪城のさくら

 

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江戸前 鰻重

 
 

 そうそう印象に残ったことを書き留めておこう。関空行きの飛行機に乗り、上空から淡路島の全貌を眺めいよいよ着陸態勢に入った機内に日本人スチュワーデスからのアナウンスが流れた。「この場を借りて 私事ですが・・」と続く彼女の言葉は、「東北大震災後、当航空会社でも、日本行きの便への志願する人が減少する中、今回、この便の機長ををはじめすべてのスタッフは自ら志願して、この飛行機に乗り込みました。一日本人としてその気持ちに心から感謝するとともに、仕事仲間以上の絆を感じ誇りに思います。」そう話され、静かな機内に拍手が広がりました。気づかなかったドラマが自分の乗った飛行機に中にあり、これも当たり前に到着するものだと何も不安を抱かずにいたことの大きさをあらためて感じました。どうしても、その一言を伝えたかった彼女の気持ちが素直に受け止められ、マニュアルだけで業務をこなすだけではなく、その人の温かみの感じられる行為に静かな感動を覚えました。「自分の思いを素直に伝える」 素敵なことだなと思った。私もそういうことをしていければと思う。

 
       


14 Mars 2010
 
それぞれの思い それぞれにできること
 

東日本大地震から 3日目

こんな大惨事が起ころうとは、誰も予測できるはずがない。被災地から助けを求める様子や、救助に当たる大勢の人の息づかいが聞こえてきそうに思う。辛い。誰だったか、「自分が寒さで震えているのか、恐怖に震えているのかがわからなくなってきた」と、 つぶやいたのが強烈に私の心に突き刺さった。私が東日本大震災のことを知ったのは、同じパリにいるフランス人の友達から来た携帯電話のメッセージだった。恐らく、フランスで最初にテレビの放送をしたときに、見たのだと思う。どこで なにが どうなって、今 なにが一番危険で 何が一番命にかかわることなのかを 信じられない映像を見ながら、考えるけれど、あまりの衝撃に感覚がない。まるで こっちまで津波が届いてきそうに思える。これほど長時間フランスのテレビで日本のことを映し出すことがなかったので、次第に私も日本にいるような錯覚に陥る。何度も大きな深呼吸をし、目を背けてはいけないと思って気がつくと、息を飲み固まってしまう。とりあえず、家族、被災地近辺にいる友人全員に連絡を取ってみる。地震が起こってこのとき6時間が過ぎていた。今日で3日目。何もできないけれど、自分なりにいっぱいのことを考えたと思う。今まで携帯電話の性能や便利さをどこかで、自分には無関係なことと横目で見ていたことが、違っていたかもしれないと初めて思った。 誰に宛てるでもない数え切れない人から届く生の声に、絶句してしまう。人を助ける ことは もちろんよいことであるけれど、本当に必要としているかどうかはその場にいる人にしかわからないもの。お節介や親切の押し売りは、かえって邪魔になって人を傷つけたりまでしているという。これでは いけないと思った。よかれと思ってしてしまうことは、相手にとっては必要がないことが多いくらいに思っている方がよかったり、逆に必要なときには、遠慮をしないで、はっきりと求めることが、もっと 当たり前になっていくといいんだと思う。日本人がフランス人に対して冷たいイメージがあったりするのは、よかれと思ってすることが、ほとんどなく、頼めばしてくれるまさに、そういうことを冷たいと感じ、余計でもしてくれたことには感謝するということを優しさと思ってしまうような違いなのだと思う。自分の心の居場所を探していたときに、見つけた文章に共感を持ち、これだなと思ったので こちらに そのリンクを 貼ることにしました。人それぞれの考えがあると思うけれど、やっぱり経験をした人からの言葉には、本当の優しさと力強さがあると思う。辛かったときのことを思い出しながら、その奥にある自分の気持ちをこれだけの文章にすることにはどれだけの思いがあっただろうと思う。書いてくれてありがとうと 言いたい気持ちです。時間があれば、是非 読んでもらいたい言葉です。

西宮市議会議員  今村岳司 さんの ページ(過去の日記 2011 3月のところ)

日本への帰国を1週間後に控え、一瞬、今帰ることは避けるべきなのかと、ためらったことも、誰からも、帰らなくていいと言われていないんだし、私なりにできることを確信できたので、予定通りに帰国をすることにしました。
元気な人が頑張らないとね。みんな 待っててね 春を持って行くから。

 
       


06 Mars 2011
 
オオキクナレ!
 
最近のお気に入り

パリの15区と言うことろには、韓国の人が多く住んでいるので、食材も手軽に手に入ります。このチャプチェというのは家庭料理の代表みたいなものですが、やはり丁寧に作ると日持ちがするだけでなく、ほんとにおいしくいただけるので、重宝します。  

 レストランから退き、次の仕事をみつけないといけない焦りもあるけど、夫婦して働きづめだった7年間、どことなく気の抜けきらないヴァカンスしか過ごせなかったので、このときとばかりにほんとに、何にも考えずに本能だけで、過ごしている。オットが留守と言うこともあって、気の抜けようが半端ではない。どこまでだらしなくできるものか。 もうそろそろ これじゃ いけないモード に 入りそうになってきた。(危険! ではあるものの これはこれで ちょっと 楽しかったりするのがいけない)夫婦で生活をしていて、どっちでもいいなと思う選択は、ほぼオットにあわせていたらしく、あえて一人ならばこっちを選ぶ ということが 明るみに出てきた。朝は エスプレッソコーヒー じゃなくて、紅茶。寝る前じゃなくて、朝風呂。夕食 夜8時には済ませる。これは 明るみに出たと言うより、日常的に私を深く悩ませていることといったほうがいい。この食事する時間が私には一番大変。そのときにならないと、わからないと言い切るオット。食事をする時間を生活の中に組み込むことしない。だから納得するのは、時間がなければ、食べないでもいいんである。何時だから食べるという習慣が全くないのも困ったもの。対照的なのが 私の父親。時計に合わせて食事をする。規則正しい(時計の目盛りと カラダの目盛りが同じかどうかは疑問であるが)生活をかたくなに守っている。きっと、オットには耐え難い習慣であろうと思われる。だって、おなかがすかないんだもん! なんて言われると、でも、時間だから食べなさい!とも言えなくなってしまう。作り置きして、暖めてチン! できる献立を考えていれば、そうもするんだけど、いつもいつもそうはいかない。ちょっと たばこを買いに行ったら友達にあって、アペリティフをしているくらいなら、その後家でご飯かと思ったら、友達と延長でどっかで一緒に食事にいくと連絡が入ったときには、ほとんど事後承諾に近かったりする。こういう低いレベルの「言い合い」に労力を使うのが情けなくなる。もう早くこんな問題から抜け出したい と 真剣に思う。

 

でも何事も、ほどほどにすると言うのは、高度な自己規制がいる。絶対に!こう と決めこんだり(父親)どうなるかわからない(オット) この二人は そのこと自体を変えたりする融通は利かないのである。私は その中間くらいが いいと思うが、どっちにでもいける余裕がなければいけないので、かなり高度なコントロールがいる。どうでもいいっちゃ いいことなんだけど、いや、そういうものほど、根の深い行き違いのストレスを生むとも言える。せめてもの救いが、父親とオットが一緒に生活をしていないことかもしれないなんて苦しい慰めを見つけている場合じゃないよなぁ〜 自分が情けなくなってきちゃう。でも、こんなことくらい朝飯前!で やってのける奥様もたくんさんいるんだろうな。こっそり”爪の垢” や ”堪忍袋の緒” を扱ってるサイトがあったら、是非購入したい。 こんな内輪の話書いてどうなるんだよぉ〜〜!エネルギー問題、年金問題、少子化問題、大変な問題にもいろいろあるけど、身近なものがつい一番大変になってしまうもの。鈍感なのもいやだけど、わかっていても受け入れられるような大きな人間になりたい トホホ・・ こういうことがあるというのが、等身大っていうことなんだろうな。

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アーチスト

久しぶりに出かけた ポンピドーセンター には たくさんの大道芸人やミュージシャンに混じっていろんなアーチストが自分の作品を披露しています。このおじさんよく見かける常連です。チョークの粉を巧みに扱ってコンクリートの地面に描いています。描いては消されてしまう落書き?も 描き手の魂が込められています

 
       


28 Fevrier 2011
 
穏やかな 感動
 
表紙の写真

今日 朝市に出かけて見つけた
ブックエンド。台所で 調理をするときに本を立てて使ったり、小さめの額を飾ったりできそう。やっぱり、こういうものはうれしくなって、つい買ってしまう。
 

こんな感じ

こんな物買っただけで、一日うれしいなんて、安いもんだな 単純!

しばらく、続いたお休み状態のTopicsですが、ここで、ご報告を。
この1月いっぱいを持って、オットのレストランが人手に渡ることになり、たくさんの思い出とともに店を引き払い、お別れを致しました。本当にお陰様で、日本のお客様にもたくさんご利用いただき、この仕事でなければ出会えなかっただろうたくさんの方と「料理」を通してつながりを持てたことは、ほんとうに私の人生にとって貴重なものとなりました。手元にあったお客様のリストからそのお知らせをお送りしたら、暖かいメッセージをたくさんいただき、あらためて自分が夢中で過ごした日々を振り返り、気の遠くなるような思いがしつつ、胸がいっぱいで、感無量でした。中には、店をやめる理由が ネガティヴなものなのかポジティブなものなのかがわからず、失礼があってはいけないとかえって気を遣わせてしまった方もいたのを後で知ったのですが、これは あくまでもオットの決断で ” 自分のできることをやり通した” という実感がこの行動に結びついたものなので、名残惜しんでくれる周りの人とは裏腹に 本人の晴れ晴れした様子の対比が妙に食い違っていたりするのがおかしくもありました。
オットの始めたレストランを手伝い始めたのが、店がオープンをして3年あまりたってから、厨房を任されしばらくは、ほんとうに一人でやりくりしていた1年弱、そして あこがれていたシェフが一緒に厨房に入ってくれるようになってからは、それまでの追われるような毎日からは少し解放され、少しずつ自分のやりたいことを実践に結びつける仕事へと変わり、それでも、無我夢中で過ごした4年間でした。オットは 店を始めるときから、一生続けていく気はなく、いずれは売るつもりで、仕事を始めたので、いつかは手放すことを想像はしていたものの、実際にはなかなか実感しづらいものでした。きっと、ものを作るという作業は、どこかで「永遠」と結びついて、膨らんでいくところがあるんだなとそんなことを思ったりしました。去年の暮れあたりから、いよいよその時期が近づいてきたなと感じながらも、毎日していることは、いつもと変わらないものでしたし、逆に、最後の日が近づくに従って、より「平常心」を保つことをさらに学んだように思います。まだ、時折り、仕事をしている時の感覚がふと戻ることもありますが、今のところ毎日普通に家で食事をすることが、新鮮でもあります。オットは しばらく 旅行に行くと 決めていたので、現在は留守。私も一人の時間を有意義に過ごしています。フランスに来て こんな風に過ごすのは初めてかもしれません。3月には 日本で続けている踊りの仕事で1ヶ月あまりの帰国をするので、その準備や、私の留守中に家の工事をする予定があり、そのために物を移動する作業があったり、さらによりにもよって、パソコンで調べ物や書類作りをしなくてはいけないのにその最中にパソコンのハードディスクが壊れてしまい、修理に出し、データの復旧させることで、何日もかかり、このサイトで報告をと思っていたのが、こんなに時間がたってしまい、結局、なんだかんだすることがある毎日で、貧乏暇なし ってとこでしょうか。でも、相変わらず、すこぶる元気で、やっております。今まで実現できなかった、友人を招いて家でのパーティーを企画したり、映画を見に行ったり、一日中 カメラ片手に撮影したり、本を読んだり、やりたいことがいくらでもでてくるので、困ったもんです。これからは、しばらく時間がなくて書けなかったことも 思い出しながら、コツコツ こちらに 書いていけたらなと思っています。とりあえず、今日のところは ご報告と言うことで。また おつきあいください。

 
       


10 octobre 2010
 
書いてみたかったこと
 
ご機嫌 麗し

すごくお天気がいいので 思い切って 布団を庭に干して、用事をしていたら、しっかり 自分の場所にしていました。猫ってちょっと高いところが好きだし、ふわふわの布団の上だから、言うことないでしょう 

フランス人の記憶力が、日本人よりもかなり適当であることに疑問を感じたことのある人は私だけでない気がするのだけれど、って こんな書き方だとあからさまにフランス人が頭が悪いと言っているみたいになってまずいのだけれど、そう言っているのでは絶対ない。それでずっとずっと、何でだろうと頭のどこかで考え続けていた気がする。フランス人から見ても、日本人は なぜ・・? と感じていることも同じようにあるはずなのだ。ちょっと前置きが長くなったが、昨日、ふと納得のいく見解を発見した。すごく、平たく言うと、フランス人は先を見て行動するが、日本人は過去を見て予想する と言うようなことなんである。たとえば、人にものを頼まれても、そのこと自体が自分にも影響することであれば、記憶にとどまるのだが、関係ないことであったりすると、そのことは悪気はなく忘れてしまう。ほんとに頼まれたことを忘れるフランス人はものすごく多い。たとえば、ごく一般的なレストランで 水(エビアンではなくて、だたの飲み水)をたのむと よく忘れられる。その代わり、と言ってはなんだけど、何度も繰り返し お願いするというようなことで気を悪くするフランス人も少ない。日本人なら、何度も同じことを言うのは、言う方も聞く方もいやな気がする というような心理がすぐに働いてしまうけれど、フランスでは全然問題ない。この問題を私なりに受け止めるには、フランスに対して好感を持ている要素というのが必要だったのだけれど、それが、まさしく「変化に対しての順応性」に 優れているということに気付いたのである。記憶することよりも、順応性を持つことに価値が置かれている。

 

たとえば、車の多いとおりで信号機が故障しても、それなりにみんな対応して事故にはならないが、日本だと現状の対処を「責任者」もしくは「担当者」が決めるまで、すべて停止 というようなことになるんだろう。まぁこの変になると、どちらがよいかどうかは比べられないのだけれど、フランスでの状況はとても自然に受け入れられるし、まず、パニック状態にはならない、安心感がある。この話、あくまでも個人差のあることなので、もちろん例外的なことは存在するというのが基本的なことですが、この順応性に関しては、日本人はかなり難しい。集団で何かとはみ出してしまうことを嫌う部分というのが、結局は、決まり事を作り、それを習慣づけていって、統一性を築く、人それぞれの個人差はその中で、自分自身の中で膨らませて、あくまでもそれを外に出すのは、まわりの状況を考えた上で、控えめにというような奥ゆかしいものが好まれたりする。その個性も飛び抜けてすごい才能の場合は認められても、そこそこ程度では、興味を持たれることも少ない。自分らしさを育てることが、見方を変えると「わがまま」だったり、「自分勝手」 だったりと言われる羽目になる。フランス人は、反省をする行動(過去を振り返ること)よりも、次の行動を起こすことで、覆してくようなところがある。失敗しても日本人ほどそれに懲りない。反省ばかりしていたんじゃ、自己嫌悪に陥る。確かに、日本人の自己嫌悪率は非常に高い。それが原因で、行動を起こせない悪循環がすごく多いと思う。私自身、フランスにいて、元気のなくなることはあっても、それでも動いているうちに、これじゃダメだ!と 素直に自分を見直せる雰囲気がある。でも、日本は、動くほど、がんじがらめになっていきそうな、「沼」のようなところがある。それは、常に 何をしてきたか、によって判断されることが多いから、頼まれたことなんかにしても、忘れないことが重要になってくるんだと思う。フランス人の記憶力が、それなりに適当な感じであることは確かなんだけど、何が一番大切かというようなことに関しては、見失わない強さが存在する。自分のことは自分で守る習慣をつけられている国だからその辺の自覚はみな平均にある。決められたことというのは、すでに過去のことであって、もちろん守らないといけないんだけれど、いつのまにか「決められたこと」の内容よりも、それを守ることの方に重点を置かれるみたいなことはなくて、ほんとにこの決めたことって正しいのかな?これでいいのかな?って言う風に考えているので、守らない人も出てきてまうちょっと面倒なところはある。そこで、「決まったことは守る」ということに忠実に従う日本人は、そこにあまり「なぜ?」という疑問視を抱くことが、少なかったり、抵抗しても仕方がないと言う気持ちがあって、かたち的には従う結果になっている。複雑さが「内側」にあるか「外側」にあるかの違いががあるように思う。すごく書きづらい難しい内容なんだけれど、日本人の私がフランスで生活をしていて、躊躇してしまうときにポジティブに物事を考えるヒントのような気がする。今の日本で起きているいろんな出来事のなかで、理解しづらい人の精神状態などの事件を目にすると、本当に怖くなる。成績がよい人、学歴のよい人だけが、よい仕事をできるものでもないし、人の能力を測る見方に偏りがあると思う。本当に難しい問題なんだけれど、こうして 日本を離れていて見えるものが、私自身にも 大きな影響をもたらしていると思う。お金がなくても、学歴がなくても、堂々としている人がたくさんいるし、どんな人とでも、話ができる平等を感じる。当たり前のようでも、日本では 目上の人と話すのは敷居の高いものという印象が普通な気がする。
いろんな意味で、フランスにいても、時々は日本語で思っていることを素直に話せる場が持つことは、あった方がいいと思う。ついこの間も、日本から勉強に来ている若者が、フランス語を話していると 自分が 妙にいい人になってしまうんですよ!って 言った意味がすごく理解できておもしろかった。まさに そういう感じ。ボキャブラリーが少ないと余計そうなってきてしまう。そのことに、歯がゆさを感じている若者、そういう感性があるのは ちょっと いいぞ! と思った。フランス語を話すとき、ほんとに自分のフランス語が思い通りにちゃんと伝わっているかどうかを常に相手の表情や ちょっとした”間”を観察しながら確認しないといけないし、もし 違っていそうなときには修正がいる。あんまりたいしたことなさそうな自分の脳みそでも、フル回転に動いている気がする。それはそれで いい訓練だと思っているけど、日本語で話せるときの爆発状態はこれまたすごい。そんな葛藤をしながら生活しているパリの日本人と 自分のことを大きな棚に上げて「ぶっちゃけた話」をするときは 最高におもしろくなる。
でも、やっぱり最後に、フランス人に少しは言いたい! 
たまには 自分のしたことを 見つめてみても いいんじゃないの?

このことについて、感想、意見など あれば是非、BBSへ コメントください

 
       


04 octobre 2010
 
最近のフランス テレビ事情
 
もしもし?

ちょっとそこのお姉さん その姿勢無理がありません? ものすごく入り込んで狭い場所に持ってきて、ちょっと高すぎるんじゃないかと思うパソコンに顎をのせてお休み中。理由は不明ですが、なぜかこの場所この姿勢がお気に入り。

最近のフランスのテレビ番組は、視聴者が主体になるものが目立つ。特に 料理番組の多さには目を見張るものがある。多くの希望者の中から選ばれた人たちが競い、最終的に残った人が栄冠を得る。審査を担当する超一流のシェフ達が見守る中、次々と与えられる条件をそれぞれのアイデアで工夫をし、料理を仕上げなければならない。素人ならではの大胆さも審査をする側にはおもしろいところのようですが、要求される難度は決勝戦に向かうにつれ、本物の料理人レベルのものを要求されていきます。ちょっと行き過ぎじゃないの?と思う場面も多々あって、悔し涙を流す場面は普通になってきている。どの出場者も、ちゃんとした職業を持った料理好きなのだけれど、目的として、本気で職業を変えるつもりで具体的な今後の自分の計画もその審査の条件に入っているらしく、ただ勝った負けたというものではない真剣さがあるので、見ている方もつい真剣になってしまう。これだけたくさんの人の関心を呼び注目される「料理」には、本当にいろんな要素が詰まっていると思う。本物の料理人でさえ、素人のすること と 甘く見ていると中にはとんでもない素人がいたりするものだから安心できない。私はどういうわけかその料理の世界に足を突っ込んでしまっているのだけれど、本業が踊りなので、つい置き換えてしまうのだけれど、この番組が踊りと言うことになると、まずは不可能だろう。実際のダンサー達が競うならわかるけれど、ただの踊り好きというのでは、基本になるベースがない。その点、料理は 作れなくても 美味しいかまずいかを感じることは人間誰しもしていることだし、生きていくことと「食」は切り離せない分、身近な題材になるのは当然だと思う。それだけに 料理の中に存在する「魔法」、同じ素材 同じ調理時間で、こんなにもまずく作ることもできるという理論を目の当たりにすると、その奥深さを感じる。でも、ある種、究極に追い詰められた状況を見続けると逆に、「そんなことにこだわってばかりじゃ、なんにもできない!」どうでもいいっていえばどうでもいい というような気持ちにもなってしまう。番組をおもしろくして行くには、そういう非日常みたいなところも必要になるのもわからないではないけれど、ついて行けないと思っている自分もある。料理の手を上手に抜くこととがどこかで食を楽しむことにつながっていることもあればそれはそれでこだわりと言えるだろうし、食べることに関心がない、極端な言い方かもしれないけれど 生きていくことに前向きになれないことの現れになっていることもあると思う。「食」と一言で言っても、人それぞれの位置づけがあることは事実だし、自分の価値観で人をはかることはできない。私はそんな番組を見ながら、料理そのものよりも、「人」を見ているような気がする。そして、人に料理を作ることで、ホッとしてもらえたり、元気になったり、そんなことが 一番 うれしいなと思う。 

 
同じような視聴者番組で、お掃除のエキスパートを名乗る2人のマダム(おばさん)が、依頼のあった人の自宅に訪れ、まずはその見事に放置され手に負えなくなったという部屋を観察分析を行い、ここに至るまでの本人の生活状況などを質問していく。自分で手に負えなくなった荒れ放題の家の中を番組上のこととはいえ、テレビにさらけ出す勇気があることにはじめは驚き、この番組 この時点で日本では実現しないだろうなと思った。それがどううまく表現したものか難しいのですが、この番組、見終わったときにすごく素直に、自分にもできるんだ!という自信のかけらがその本人の表情から伺えて、うれしい気持ちになったりする。まずは そのエキスパートのおばさんのキャラクターがとってもキュート! ちょっぴり 厳しくいうことはあっても、本人にいろんなことを自覚させる手段が、なかなか すばらしい。「綺麗好き」と一言で言っても、かなり度合いに差があるものだと思う。私自身、人がいつ来てもとりあえず大丈夫かなというのが基準と言う程度の綺麗好きで、そのときの優先順位で、手抜きをしているときもあるわけで、外見的にはきれいでも、収納の中には仕分けできずにほりこまれているだけの「にわか綺麗好き」もいれば、きれいには見えないかもしれないけれど、どこに何があるかは明確な「自称整理魔」も存在する。ものがたくさんあると安心できるタイプや、ものが外に見えると片付けたくなると言うタイプもみんなその人が基準な訳なのだ。不衛生でバイ菌に侵される可能性が出てくる場合までいくと、問題が違ってくる。この番組に出てくる人たちはこのケースになる場合がほとんど。一応にいえるのは、本人達が自分に自信がなくなっていること。人から見放されていることも気付いていて、孤立している。片付けが苦手な人と言うよりは もっと 精神的な部分に大きな原因があるように思える。整理整頓が苦手だというのは、結果なのであって、うまくできない理由がほかにあるような気がする。「やるき」がないからじっとしているのではなくて、ほんとうは じっとして行動を起こさないから「やる気」が出てこないのと同じようなものかもしれない。人間って やっぱり弱いものだなと思う。本当に真剣に自分の問題に一緒になって考えてくれる人がいると言うだけで、彼らの目線が変わっていく。そして素直にそれまでの自分を戒め、自分を一から作り直そう! 自分が変われるうれしさとともにアクティブになっていくさまが、画面からも伝わってくる。誰にだって あまり自慢にできない欠けたところはあっても、取り立てて人に言うことでもないとなると、そのままになってしまうもの。この番組ではそれを公表する勇気を持っている分だけ、彼らの得るものは大きいかもしれない。最近の日本のテレビはよくわからないけれど、番組を作る時点で、たくさんの制御が施されていそうな印象があるのと比べると、かなり そのままの状態が映し出されてるという臨場感があって、自然な感じがする。まー単純な話、この番組を見終わると、掃除がしたくなり、自分の家まできれいになっちゃう! そんな効果のある現象が只今継続中であります。(汗・・・)
フランスの正しい朝食

最近、朝仕事で厨房に着く前にちかくのCafeで ゆっくり 朝食をとるようにしている。ちょっと贅沢ですが、ほんの少しの余裕で仕事が始められると、ずいぶん違いがあるのです。それに このCafe クロワッサンは 自家製で 焼きたて! クロワッサンの パリッ と しているところが うまく伝わるといいけど・・。
タルトタタン

表紙にも載せている写真ですが、やっと うまくできるようになりました。これは かなり難しかったーー。失敗は成功の元 ほんとにあきらめないこと! あら熱が冷めて ひっくり返すときのドキドキ感は たまりません!
 
       


29 août 2010
 
体験 が 経験に変わっていく瞬間
 
プロとアマチュアの違い というのを あらためて気付き、なるほどなぁ〜〜 と思ったことがあった。経験をつむことで、身についてくるときと言うのは、もちろん結果にそれが表れてくるんだけれど、実際に作っている瞬間と その前後が、ちゃんと読み取れていて、成り立っている。どんなことで それに気付いたかというと、料理の盛りつけの時のこと。同じようにしているつもりなのに、なぜうまくいかないんだろう?と できる人と できない人を 注意深く観察すると、お皿に置く前に、もうすでにできあがりのかたちができているか、かたちをお皿の上で作ろうとしているかの違いがあるようだ。今までは、ただその光景を見ていただけだったのだけれど、画面には見えないものが、ちょっとした動きの間や、素材を置く瞬間の動きをよく見るとそういうことが見て取れるようになるのだ。料理を置くだけではなくて、それをどう盛りつけして、人がどう食べるかと言うことまで、丁寧に思いを込めることで、盛りつけるという作業に、大きな違いが出る。付け合わせとメインの料理の分量の割合、温度、食べる人の年齢や 食欲の度合い、飲み物の種類、などなど、厨房では、様々なものを把握しながら、その仕上げをする。作る側の主張と食べる人の状態のバランスを考える。家庭ではそこまですることは少ないけれど、暑い日が続くと、それなりに食欲をそそる、栄養のあるもので、作るのに手間のかからないものという風に考えるのと同じようなこと。それまでの私は、お皿の上で盛りつけをしようとしていたのですが、それでは、遅いのです。ということは、盛りつけのイメージができていないところで、お皿の上に乗せはじめていたと言うこと。確かに、きれいにできるときは、できあがりのイメージがすでにあるのだ。これが踊りを例に取ると、まさに同じ。つま先で立つ瞬間に何かをするという感じなのが、初心者で、慣れてくると、自分の中の分身の自分が、すでに次の動きを把握してかたちを作り始めている感じなので、読みが早いのです。料理の仕事していても、こうやって 本業の踊りのことと照らし合わせると、すごくおもしろい。どういう風に見せたいとか、どういう風に食べるとおいしいとかが、ちゃんと順を追ってイメージされていて、そういうことがかたちにするときに自然に指先や足先に伝わり、ものを置く と言う作業につながっていく。そうやって置かれたものは、崩れにくく、シンプルでいて、潔さも感じられて、気持ちがいい。さかのぼれば、日本のお作法というようなものは、そういうことを突き詰めてできあがった美しく無駄のない仕草という感じがよくわかる。知っているからできるというものではなくて、身についているかということ。そこには奥深い思いやりの気持ちや、感謝 のようなものもがその奥底にあって、自然に見えていくんだろうな・・。難しいけれど、自分が思った分だけ、そういうことがちゃんとおもてに、あらわれてくるんだなぁー。そう思うと、楽しいね。
Clafoutis au figue

来週から 店のデザートに加えるデザート クラフティ という フランスでは馴染みのある優しい焼き菓子 それにちょっと一工夫加えて ほんのり 癖のないチーズを練り込んであります 甘さを控えめにして イチジクの甘みを生かし チーズが入っているというのがほとんど気付かない程度ですが、香ばしさが 加わります。簡単で 食後にうれしいデザートです


日本にはない桃の種類です スペイン産のこの桃は 小ぶりでたてに押しつぶしたような焼き餅のようなおもしろいかたちで真ん中に種があるだけなのでかぶりついて食べられて楽ちんなんです。それにとっても甘い
 
       




26 août 2010
 
残暑 お見舞い申し上げます
 
案の定、日本から戻って踊りから、一転して厨房での仕事に早変わり、めまぐるしい日々を送って、やっとの思いで 夏休み。その休みもまわりの人達に比べると控えめな休みの上に、私はこの時間を利用して、フランスでの生活をはじめて約10年、その間に増えてしまった書類を整理し、パソコンのデータとして保存できる限りのものを変換して、紙の処分に、時間を費やし、情報整理に励んでおりました。幸い、比較的過ごしやすい涼しい日が続いたので、ありがたかったです。毎年同じような会話を聞くけれど、今年こそは本当に日本は例年にない猛暑のようで、日本から離れると今はその暑さも思い出して想像はするけれど、きっと 想像以上なんだろうと、生活をしている人たちのことを案じています。こういうときは、必要以上にエネルギーを使わずに、おとなしくしている方が無難なのでしょうけれど、私の記憶では、踊りをしている人は、そのなかでも練習を同じようにしているのですから、ほんとになんと言ったらいいのか、ほんとに頭が下がります。フランスでは、基本的には8月はみな練習はせずにお休みというのが一般的で、パリに居残っている人は、オープンスタジオでちらほら、代行の先生が指導しているようなクラスを受けているくらいでしょうか。9月に入って クラスが再開し、徐々にエンジンを掛けて、10月くらいには調子が戻って、そうこうしていると、もうクリスマス! ほんとに そんな感じです。競争意識も日本ほどなく、マイペースなのがいいのか悪いのか、気がつくと時間がたっている、やっぱり 心のどこかに、時間を無駄にしているのではないかと、ふと思っているようなところが未だにあるので、この日本人気質というのはきっと直らないんだと思う。この歳になって言うのもおかしいけれど、暇なときにしたいことと言うのが、結局、頭を空っぽにするのではなくて、集中して勉強できないようなことを、心ゆくまでしたくて、それが人から見ると、勉強しているみたいになっちゃうんだけど、それが うれしくてたまらない。中学生くらいの時にこの感覚に目覚めていたら、きっと 勉強できたんだろうと思う。あのころは授業中に何を考えていたんだろう。授業で学んだこともそのときに考えていたことも、ほとんど記憶にない。そんな私が、学校の 健康優良児 に 選ばれて 表彰されたりしたもんだから、そのギャップが未だに 自分でも理解しずらい。そのころから、学校の勉強だけが人のすべてではない!みたいな 開き直りや、成績の善し悪しに興味を持っていなかったかもしれない。そう思うと、ちょっと生意気な感じだったのかな。いろんな人がいるものだなーと、友達や先生を眺めていた記憶だけはある。やっぱり、ちょっと まわりとは違っていたかもしれない。
ある日の夕食

野菜のグラタン 旬の野菜だけをふんだんに使ったシンプルなもの 一人分だけというところが ちょっと贅沢な気分 熱々の焼きたてにロゼワインを冷たく冷やしていただきます

毛皮 脱ぎたい!

と、言っているかどうかはしらないけれど、久しぶりに出した扇風機の前に 一番乗りで くつろぐ うちのお姫様 「暑いーー 何とかしてくれ!」
 
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そしてまたある日の一人ごはん

組み合わせが気に入って、2日続けて作っちゃいましたが、飽きません。ラタトゥイユ と 鯖の塩焼き に バゲット

話は違うけれど、今年の里帰りで、私を大いに驚かせくれたこと、それは 父親が料理にはまっていることだった。はまっているというと大げさかもしれないけれど、なにやら、いろいろ試行錯誤をしながら作りあげている様子で、なかなか頼もしい光景でありました。母からも聞かされていた、ヒット作のサンドイッチを、しっかりご馳走になった。日頃は、母親の分とあわせて2人分のところ、私が加わるので3人分になるところが、いつもと勝手が違う様子で、いろいろと工夫をしている様子。昼の12時にできあがることを計算して、11時過ぎには台所にスタンバイ。こっそり、覗くと・・。ちょっと見たことのないような父親の姿が・・。それが なんだか楽しそう!私もそうだけれど、食べてくれる人がいると、厨房でも張り切っちゃう!気持ちは同じ。結構、父は外に出かけたついでに外食をして、いろいろアイデアを膨らませていたと見える。中の具の組み合わせがバラエティーに富んでいて、しかも 具に絡ませるソースも1種類ではない。主張しすぎない量の加減が、全体の味に奥行きをつくり、塩味、酸味、甘みのバランスが 取れているのだ。母親は、そのサンドイッチを上手に褒め称え、うまく食事の手抜きをするコツもつかんでいるようで、万々歳。85を過ぎても、衰えることのない食欲と想像力、あーあー 私は やっぱり この二人の娘だなーーと、妙に納得できるそんな時間でした。

 

 
       




11 mai 2010
 
誘惑との戦い
 

私の住むパリ15区の ほんの自宅周辺には 知っているだけで9件のパン屋がある。日本では主食のごはんを店で買うような習慣がないので、多そうに思うかもしれなけれど、どの家庭も最低1日1回は必ず買うとすると、当然かもしれない。どの店も使っている粉も違えば、微妙な味も、焼き方も違う。パリの自宅で食事の時は、だいたいは一番最寄りの店ですませているけど、料理の味によっては、今日は違う店のバゲットにしよう!と出向くこともある。 選べるというのは、すごく贅沢。
パンで思い浮かぶ エピソード
日本なら、ちょっといいほろ酔い気分でご主人が手土産にしそうなのがお寿司の折り詰めだったりするのが、我が家の場合、クロワッサンに変身する。 夜中1時過ぎにオットがうちの店を閉めてから、親しい友人などとバーカウンターで話が弾んで、朝帰りなんてことになったとき、ちょっと後ろめたい気持ちがするんだか、早朝、帰り道のパン屋でパンを焼きはじめている匂いがするらしく、まだ、開けてもいない店のガラス戸をたたき、クロワッサンが焼けていたら売ってほしい と 頼むそうだ。 

あさりと菜の花のスパゲティ

日本に戻ると、楽しみなのが日本の野菜達。それに春先とあって、旬の出始めのものがたくさん見られる。この日は父の好物のあさりを使ってスパゲティー。みんなで食べるとさらにおいしい!!
 

顔見知りと言うこともあってのわがままをいやな顔もせずに聞いて、ほかほかのクロワッサンを紙袋に詰めて持たせてくれる。寝ていると、玄関の扉を開ける音がして、ぷ〜〜んと 焼きたてのパンの香りがすると、文句の一つも言いたくて構えている私のご機嫌も麗しくなると言うわけ。やられた〜〜! って感じで、子供染みているけれど、おいしいものにはやっぱり勝てない。 ばつの悪いオットも、これで にんやり 私の前に姿を現す というわけ。パリでは、区域区域で 薬屋とパン屋は 全部が閉めてしまうことのないように、交代で休みを取るようなシステムになっているらしい。いくら自宅でパンを焼く人が増えたと言っても、バゲットを毎日焼く人はさすがにいないようだ。

パン屋のついでに、近所にあるレストランをあげてみると、これがなかなかすごいヴァリエーション。フレンチ・コルシカ・バスク・イタリアン・日本料理・中華・韓国・ベトナム・タイ・レバノン・チベット・イラン・スウェーデン・スペイン・エジプト。これが全部、徒歩の距離ですから、パリって やっぱり すごいんですね。それに、どれもそのお国の方が厨房で作っているのがほとんどというところがなんというか、驚きです。この範囲で、こんなにいろんな人種がいるという事実も想像するとびっくり。こうなると、自宅での日本の家庭料理「焼き魚に味噌汁」みたいなのが、さらに価値が上がって、作りがいもある。私的には、これにラーメン屋があると完璧なんですが・・。って、このくらいは日本に帰ったときの楽しみにしないとバチが当たりそう。

 
春野菜

久しぶりの黒門市場 並んだ〜〜並んだ〜〜 あか しろ きいろ の 野菜
真ん中の緑の野菜はわさびの葉

実は、明日、楽しみにしていたお客様が来られます。彼女も本業は別の仕事なのですが、今は、そうではなかったはずのことが、本業になりそうなそんな展開をされています。お互いになかなか忙しくて、ゆっくり話すことがなかったのですが、自宅に来ていただけるので、くつろいでゆっくり話ができそうです。手軽にできる料理もいくつか考えています。で、話がちょっと飛んでしまうのですが、前から買い換えて欲しい〜〜と頼んでいた冷蔵庫を買い換えいることになって、つい今さっき1時間ほど前に届いたところなんです。わぁぉ〜〜〜〜〜 うれしいぞ!!オットは有頂天になっている私に驚いているようですが、なんと言っても台所は私のお城ですからね、これが喜ばずにいられない訳で、興奮状態の私を追いかけてまわるLunaも、なぁ〜んだかいつもじゃない空気を感じているようで、さんざん走り回って疲れたのか只今、パソコンの横のプリンターの上で爆睡中。明日用に買い出しに行ってきたので冷蔵庫の中は、はっきり言って、もう ELLE とか クロワッサン とかの雑誌に出て来るようなとても素敵な状況なんです。気がつくと、つい、にやっとしている 私。張り切りすぎて、失敗なんってことにならないように・・。結構、そういうことになりやすいタイプなので、「平常心、平常心!」と、言い聞かせてます。
ほんでも、単純やから 冷蔵庫の出てくる夢なんか見るんやろうな・・多分。

 
       




09 mai 2010
 
誕生日
 
お祝いのブーケ

 昔からの生徒さんが覚えていてくれて、お祝いを下さいます。このブーケもその一つ。水揚げがよくて、とても長い間楽しませてくれました。

なんだかんだ言って、余裕もって里帰りしたつもりでも、このときとばかりにやりたいことが増え、ゆっくりした時間はわずかしか取れなかった。まわりの人に会うとは、「ご両親 お喜びでしょ?」「お元気?」ためらいなく、「ええ、お陰様で、とても元気で、私の戻って来るのを楽しみにしていてもらえて ありがたいです」と 答えられることにも感謝せずにいられない。今年も私の誕生日を一緒に祝ってもらえるなんてほんとうにありがたいこと。85歳の父、81歳の母と一緒に、54歳になったわたしは、その日、ほんの少し電車で行ったところにある、小さな洋食レストランへ昼食に出かけた。すこしづつ外出を控えてる様子の二人も、相変わらず自転車に乗って買い物に出かけるし、習い事をしたり、用事があると言っては都心まで出かけている。それなりに弱ってきているとはいえ、富士山のなだらかな傾斜のようで、ごく自然に思える。何よりも、話に事欠くことなく、あれこれ昔の話や、今の世の中、云々 家族・兄弟親戚 昔のご近所さんのこと、いくら時間があっても足りないほどの話題で、盛り上がってしまう。何となく両親のこの年齢くらいになると、普通の会話そのものに困難が起こりそうなことを、私も無意識に覚悟をしていたのか、なんのことはない昔通りにいろんな話ができることが以外な感じさえする。食事の終わった食卓を囲み、昔住んでいた家の近所にあった店の名前、広告の紙の裏に鉛筆で家の近辺の地図まで3人で書いてみる。すると、出てくる出てくる思い出話、ご近所の井戸端会議ばりの、中には知らなかった事実が・・と、まるでテレビドラマの回想シーンばりの興奮、話題がローカルすぎてうちの家族にしか理解できない内容がおかしすぎて、お腹を抱えて笑ってしまう。どうしたのか黙っている父が「思い出した!」と 誰も思い出せなかった山の名前や、木の名前を必死で絞り出していた様子。思い出せずにしっくりいかなかった3人が、ホッとして、おかしくてまた笑ってしまう。この光景は今思い出しても笑えるし、大ばぁかもしれないけれど「幸せの縮図」のように思える。私は こうして大きくなったんだなとあらためて思う。たわいない ものであればあるほど、リアルで実感がわくものだ。

 
 

さぁて、その誕生日のお祝いに選んだもの。空腹をそそるメニューが並ぶ中、3人して選んだのが「オムライス!」。こんな歳になっても祝ってもらえるんだから、牛肉のワイン煮込みや舌平目のムニエルなんて注文しそうだけれど、ここで庶民の味を選んでしまうのもうちの家族らしい。でも、言っておくがここのオムライスはそんじょそこらのオムライスとは違う。このレストランはカウンターに8席ほどしかない小さなお店で、コック帽をかぶって腕をふるわれるご主人と、その奥様がおもてなしを担当されています。これぞオープンキッチンと言わんばかりの空間で、どちらかというと私達が厨房にいると言った方が近い。磨き込まれた厨房に目を引くばりでなく、いろんな手際も、目の当たりにできて、ちょっとした舞台を見ているようなわくわく感がある。そんなお店だから、オムライスもこんな高級になるんだと驚いてしまう一品なのです。入念に仕込まれたドミグラスソース、中の具には枝豆や何種類もの茸が入っていたり、大きすぎることも小さすぎることもない分量が心憎い。はじめに出されたじゃがいものポタージュスープもあたりまえだだけれど、あたりまえに思えない深みがある味。最後には選んで仕入れられるというおいしい苺をつかったシャーベットを出してくださった。結婚前に1度だけ日本に来たことのあるオットもそのときに一緒に来ていて、ご主人は私たちがパリでレストランをしていることもよくご存じで、同業者としての話題ができるのも楽しみだったりします。おいしい余韻に浸りながら店を出て、3人で歩きながら、いい意味で ”ちょっと癖のある人” と話しながら、私たちも 十分に癖のある人間だね〜〜と またしても笑ってしまう、そんな楽しい時間でした。人のこと言えた立場ではないけれど、癖なのか個性なのか、そのあたりはその人の器で決まるんだろうなと、思う。ものや空気を通して、その人となりが伝わってくる、すべてそういうものなんだろうな。情報処理を機械を使って捌いて行くと「いい意味の癖」みたいなものが、どういうところへ 行ってしまうのだろうとふと思ってしまう。

食事のあと、せっかく、出てきているついでに、時間もあるので 昔から行きつけている美容院に行くことにした。いつも、昨日のことのように接してくれて、何より私の好みや髪質をわかってくれているのがうれしい。気分転換にもなってすっきり。美容院のある大阪四つ橋の裏通りをぽつぽつ歩いていると、携帯電話が鳴る。パリのオットから 誕生日おめでとう! のメッセージを 言いにかけてきてくれた。誕生日だから誰かと一緒にいると思ったのか、一人で街をぶらついているというと「?? それでいいの?」と言いたげな雰囲気が伝わってきた。「これはこれで いい感じよ!」というと 安心していた。 電話を切ってから、ちょっと感慨深い思いがした。遠くパリから時差を計算して電話をかけてきてくれたオットのこと。誕生日を一緒に祝ってくれる両親、年に一回のワークショップを楽しみにしてくれている生徒達、パリのレストランの仲間やお客さん、ちょっぴり恋しくなってきた猫のLuna のこと、心配事がないわけではないけれど、この幸福感は、これから起こるかもしれない試練をきっとどこかで支えてくれるんだろうと思う。

よし川

オムライス
Luna

里帰りから戻ってきて、Luna は すごく甘えて近寄ってくるようになっていてびっくり。膝の上におとなしく座るなんて、はじめてのことです。
 
       
       


08 mai 2010
 
時の流れ
 

フランスと日本を行き来するようになって、10年。正確には、はじめの5年は一度も里帰りをしなかったから、行き来することは、5年になる。無意識に、Paris 大阪、どちらへ行くのも、「帰る」と 言葉を選んでいる自分がいる。そこには、「待っていてくれる」 という安堵感が含まれているのだろう。でも、出発の時に感じる不思議な空虚感には、相変わらず慣れることはなく、別れのあと、しばらくの間、いろんなことが頭をよぎり、いろんな区切りを整理しているところがある。そうか 10年なんだ・・。それにしても、こんな年になって言うのもなんだが、小さいときから今もなお、何かに夢中になっている自分を おもしろいな〜〜 単純だな〜〜と思う。

今回 日本での滞在を終え、帰国するのに、はじめてに飛行機のチェックインをインターネットを使って24時間前に済ませた。空き席をチェックしてから、自分の好きな場所を選べるし、当日に長い列に並ばなくても、荷物を預けるだけでうんと手軽になって、助かる。こういう手続きをやり慣れないからと言って、利用せずにいるとどんどん億劫になっていくんだろうな。でも実際にはまだまだ利用できない人が多そうだし、全体に普及するには時間がかかるのかもしれない。インターネットは全く受け付けない人もまわりにはかなりいるのも事実。私の場合は海外生活をすることになって、必要不可欠になったのがきっかけだから、日本国内にいるとどうしても必要なものとは思えないのはわかる気がする。

木の芽和え

実家の庭にある木の芽が ちょうど芽を出し、わずかの期間私たちを楽しませてくれます。母にリクエストで 竹の子といかの木の芽和えを作ってもらいました。そして大阪黒門市場の伊勢屋さんのお漬け物。白菜と 旬の水なす もうおいしくて おいしくて 会話が途切れてしまいました。

 
       


15 mars 2010
 
里帰り 
 

うたた寝をしていると、アナウンスの声がする。「搭乗機に急病人がおります。お客様の中にお医者様がおられましたら、乗務員までお知らせいただけないでしょうか?」その状況を把握するのに4,5秒かかった。そうだ!今飛行機の中なんだ。エコノミーでの飛行機は快適とは言えないけれど、今回は一番前の席で、足が十分に伸ばせるので、それだけでもずいぶん開放感があって、違う。少ししてから、スチュワーデスの1人にお医者様は見つかりましたか?と聞くと、看護婦さんがいた様子で、その病人も持病かなんかで、危険な状態ではないそうだった。よかった。期待せずに食べ始めた食事も、こんなに全部平らげたのは初めてで、こういう食事を作ったり、開発をしている職種も、地道に進歩しているんだんと思う。食器類がプラスチックなので、安っぽく感じるけれど、暖めることを計算して準備されているのがよくわかる。塩味も無難に付いているし、鶏肉のマスタード風味のバランスとサフランライスがよく馴染んで、付け合わせのにんじんの甘みが、味のバリエーションを作っている。カマンベールチーズの食べ頃具合が、絶妙で隣の人の食べ残しをもらいたいと思ったほど。いつの間にか、ただ食べると言うことができなくなって、どうしても観察してしまう自分がいて、ちょっと情けないようなあきれた感じ。以前には、感じ取れなかったことが、理解できたり気づいたりできるうれしさとは、引き替えに、ちょっぴり「そんな理屈 どうでもいいんだよな〜〜」と、つぶやいている自分がいたりする。

今回は、いつもよりも少し長めの滞在をする。1ヶ月はみっちり仕事だけど、前後に少し休養をできるような時間を取る予定。2年間にわたり、昼夜ともオットのレストランの厨房を預かってきて、さすがに1日15時間労働はかなりきつかった。それでも手を抜くことはせず、自分にできるだけのことをやってきたお陰で、経験できたことの貴重さはほかではあじわえないことだった。フランスに来て今年で10年目。そういう区切りとも重なって、それなりの感慨深さがある。ここまで来たんだ って そんな感じがする。

 
 
今まで、本当に辛いときと言うのは、辛いって言ってしまうと、その瞬間に、なんとか取りつないでいた細い糸までが、プツンと切れてしまいそうで、言えなかったし、言わなかった。それはほんと。でも、今ちょっと違うかな、辛い・・。って、言ってしまうと、それはそれで、現実なんだし、辛い自分に対して、ちょっと優しくなれる気がする。別段、それほどの違いはないようですが、温度が違います。言葉に出して言ってしまうって、自分で思う以上に、はいってくるものがある。余裕というのでもないのかな? うん、ちょっとそういう系統のもののような気がします。あとになって、あのときなぜ言えなかったんだろうということも、誰しも経験のあることでしょう。いろんなことを含めて、生きていてよかった そんな感じです。
 
さくら

静かな公園の一角にあるこの桜は、毎年 仕事で尋ねる、ある稽古場のそばにある。人通りが少ないわけでもないが、こんなに桜が咲いていても、ここで花見をしている人はほとんど見かけることがない。ここで ぼーっと過ごす時間が毎年楽しみでもある。近くの田んぼには 菜の花とれんげの花が一杯咲いている。