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Aujourd'hui hier |
27 Decembre 2008 |
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またまたご無沙汰をしてしまいました。一難去ってまた一難。話すと気が遠くなりそうにいろんなことに追い回されていた約2ヶ月でした。 クリスマスを挟んで、つかの間のお休みをいただき、やっと Topics に手をかけられる時間ができました。今日は、前回のお約束、お店でもお出ししている、超簡単スープのレシピをご紹介します。サイトのお料理のレシピの欄にも後々追加して載せるつもりですが、まずはこちらで。 用意するものは、
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10 Novembre 2008 |
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HIROMIさんにいただいた薔薇の一輪 |
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28 Octobre 2008 |
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席は前から2番目の中央から少し左に位置したとてもいい場所です。それと いつも感じる客層の広さです。やはりそういうところが、舞台芸術が育つ大きな基礎になっているのですね。 |
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この作品は、一人の女性とその彼女を取り囲む何人かの男性との間を描く人間像が、主体になっています。フランス映画らしく、見終わったあとにおわった〜〜という開放感ではなく、じわーっとかみしめるものがあります。作品が劇中劇である部分を、あらゆる試行で観客までもその劇中劇に参加しているような演出があったりで、その斬新な発想に驚かされ、ひょっとしたら、これは演じている人が一番面白いのかもしれないと思わせる舞台でした。場面転換も、舞台裏のリアリティーをそのまま見せる演出で、本物の舞台裏の人間も混じっています。子役などはオペラ座のバレエ学校の子供ではない普通の子供を使っていたり、飲み屋のシーンやお祭りのシーンでもミュージシャンが舞台上に登場します。後半に入ると、私たちの見ている客席、バルコンに登場人物が現れる演出があり、はじめ気づく人が少なかったようすですが、気づいた瞬間のみんなの驚きも感じ取れて、それもまたニクイ演出。どこまでが作り物の世界で、どこからが現実なのか、その境界線を引くことの難しさを、舞台ならではの仕掛けで、楽しませてくれました。舞台のあらゆる可能性をふんだんに引き出して、360度そのまま劇中劇の中で見ていた印象です。思い出してもワクワクしますね。いつも感じることですが、とてもレベルの高い芸術でありながら、とても身近に感じることができ、高貴すぎて人を寄せ付けないような威圧を全く感じないことです。どこまでも、見てくれる人を楽しませたいという真摯で限りないやさしさを感じます。踊っているダンサー達にしてもおなじでエリートのもつ優越感のようなプライドも感じることがなく、私たちとなにも変わらない普通の感覚をも持っていることにもその奥深さを感じさせます。。 |
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舞台前半が終わり、幕が下りると同時に、 天井から降ってきたチラシ |
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20 octobre 2008 |
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Michkaがお星様になって、7日が過ぎました。どうやってこの1週間を過ごしたのか、恥ずかしいですが、あまり自分でも記憶がありません。もう大丈夫!と思っても、何気ない瞬間に、いたたまれない気持ちに逆戻り、ついつい泣いてしまう毎日でしたが、どうやらその山場も超えたように思います。
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翌日、いつも通り仕事に向かう。誰にも、このことは話さず、普段のまま過ごす。オットと話し、うちの庭に埋葬することに決め、昼の仕事のあと、ふたりで庭の陽の当たる一郭を決め、名残を惜しみながら、作業を進めました。この日は日が暮れても20度を超すお天気で、これも何かの力なのかと思うような不思議なお天気でした。仕事帰りにとりあえず、両手にいっぱいの花を買ってきたので、庭が一瞬に鮮やかになりました。オットは最後まで面倒を見ていた私に、すべての決断を委ねてくれ、君のしたいようにするからと、言ってくれました。悲しかったけれど、これ以上のことはできないと思えることに心の区切りをつけ、最後に私がMichkaに宛てた小さな手紙を手に持たせて、お花を一輪、そして静かにお別れをしました。そのあと、オットとふたり、庭で、お酒を飲みました。こういう時のお酒は、確かに緊張が少し和らぎ、楽になれるのはありがたいものです。庭があるお陰で、私たちのそばでずっと眠っていてくれることができ、寂しさもほんの少し和らいでいるように思います。これでよかったのですね。きっと。 Michkaは たくさん 私たちを 優しい気持ちにしてくれました |
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29 septembre 2008 |
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”流行に流されない”というのが、この世界の流行の先端といわれるパリ・フランスの女性のおしゃれのポイント。さすがだと思わせるところ。自己中心という感覚も取り違えると、わがままになってしまうが、こと お洒落に関しては、それでいいんじゃない? と 深く共感を持ってしまう。だから、普通に歩いていても、いろんな個性が見えて楽しい。自分が楽しんでいる というのが見て取れるのは、普通レベル。自分をどう見せたいかを考えて、自分の好みだけに没頭しない、ちょっとランク上のレベル。それらのポイントのひとつは、金銭感覚。こんなことを書くと日本の若い女性に反感を買いそうだけれど、歳相応で、できれば、安いものを自分で着こなしでみせるテクニックがお上手。若い人が高価なブランドものを持つのはもってのほか。それにブランドものを買う人は、メトロになんか乗らない。自家用車かもしくはタクシー。ブランド名の入った紙袋を自慢げに手にしている人をメトロで見つけると、それは日本人観光客であることがほとんど。それでもたまにいるのは、本物の貴族令嬢。本物のお金持ち。そこまで行くと、やっぱり育ちが身についてるのか、10代でもそれなりににあっているんだから、嘘はつけない。日本の雑誌で頻繁に取り上げられるパリジェンヌのおしゃれ、生活の記事。とりあえず、そう言う見出しをつけると売れるのかして、目にするけれど、内容も底がついて、マンネリ状態。私も何度となく同じようなことを書いているが、そのくらい外から日本を見ると、不思議で滑稽に思えてくるのです。人間関係にしてもしかり、お洒落にしてもしかり、自分をそのまま表現することに抵抗を感じたり、浮いてしまうことを恐れたりすることのほんとうの理由は何なのかなとつくづく思ってしまう。自分の中を自分で探ることよりも先に、まわりの目に対しての反応に敏感になりすぎて、自分を追求することがその時点で終わってしまうんだろうか・・。個性はなにかのうえに上乗せされて存在するものではなくて、その人の根底にあるものだとしたら、そこに目を向けない限り、自分は出てこないかもしれない。そう言う意味では いろんな壁にぶち当たることは、自分と向かい合える良い機会になると思う。もっと、想像力を養いたいものだ。最近読んだあるサイトを見て知ったが、同じ踊りでも日本舞踊は、鏡を使わずに、自分でイメージをして動きや形を作り上げていくそうだ。西洋の踊りは、鏡を使って練習することが多いが、確かに そこで違いが出てくるものがあると思う興味深い話。日本の文化には、誰にも見て取れるようなものよりも、粋と呼ばれるようなものを見て感じ取れる習慣を身につけることでセンスを磨く、本来、日本には地味かもしれないけれど、すばらしい文化が存在していると思う。西洋には真似のできない文化がある。確かにフランスで見る アジアの文化に対する興味やあこがれが、本来の形を無視して外見を真似した摩訶不思議なものへ変化しているのを見るのもどこととなく悲しかったりする。見た目を真似るのではなく、なぜそう言う美が生まれたかを知ることによって、流行に流されないお洒落も成り立つんじゃないかと思う。日本人もそう言う情報に振り回されず、そこから脱皮できるようになったころ、お洒落上手といわれるようになるんだろうか。 | ||||||||||||||||||
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24 septembre 2008 |
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7 septembre 2008 |
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2 septembre 2008 |
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28 aout 2008 |
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昨日のリュクサンブール公園の様子です。まだ観光客がたくさんいる中で、一人静かに過ごしている人がたくさんいました。泉のほとりは、静かに水の音が聞こえ安らぎます。大きなマロニエの木が泉を囲み、木漏れ日が水面を照らし、キラキラと揺らぐ水面を、鴨の家族がスーイスーイ、となりでは若いカップルが幼いときに歌った歌を思い出しながら口ずさんでいるかと思うと、向こう側では、デッサンをしている人、難しい面持ちで新聞を読んでいるムッシュ、孫娘にお話をしているおじいちゃん、かと思うと、かくれんぼをしている子供達が、そこかしこを走り回ったり、もう様々。豊かだなと思います。 | ||||||||||||||||||
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27 aout 2008 |
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偏見というのは、どういう風に生まれてくるのかと、こうして、いろんな国の人が混じり合って生活をしていると、たびたび思うものです。外から見ると、それは偏見だと見えても当の本人にとっては、自分を守ろうとする一心になっているだけのようにも思えます。偏見がいけないというよりも、なぜそう言う偏見を持つのかをお互いに理解してみることの一歩があれば、それらは違う形になることで、摩擦をすくなくすることができないのかなと考えます。理想を言っても仕方がないけれど、ね。なぜこういうことを書き始めたかというと、きっかけは、養子縁組 こちらでは Adoption といいますが、あたりまえのように普通に受けて止めていて、日本で言うそれとは、かなり印象が違い、私自身も日本にいた頃の受け止め方に何の根拠もなく敬遠しがちな受け止め方をしていたことに気づいたからです。家族のあり方、社会のしくみなど、細かく関わっている部分があるので、その国によっての事情は確かに違うものだと理解をしたとしても、まずは、養子縁組を考えている側よりも、それとは無関係なまわりの受け止め方が、大きく違っていることに疑問を感じるようになりました。以前の私のように何の根拠があって何となく敬遠しがちであったかはよくわかりません。そこで、思ったのは、日本人の中にある本物志向というような部分で、混じりけのない純粋なものという捉え方が強いかなと思うのです。純粋に混じりけがない貴重さも、混ざり合うことで生まれる調和の貴重さも、どちらもおなじくらい大切なことだと思うのです。しいて言えば、混じりけのない純粋さを保つために守ることだけに集中するがあまり、他のものを受け付けない危険性があるし、混ざり合うことで生まれる調和には、本来の姿を隠蔽するという目的にすり替えられてしまう危険性が、それぞれにあると思う。「フランス人って どうして 何でもかんでも混ぜたがるの?」と、つい厨房で口走ってしまう私。日本料理を作るときとなにが違うって、素材の良さを最大限に生かすという方法でさえ、こんなに国によって違うものなんだと、納得させられてしまうのです。混ぜることにはそれぞれの質をどう生かすかという深さを誤解すると、混ぜてしまえばわからない という風になる危険性はあって、その境目が微妙なんだと思う。話は料理になってしまったけれど、書き始めて、自分の考えがまとまるわけでもないのですが、また、折を見て考えてみたいなと思うことです。 |
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25 aout 2008 (今日2回目) |
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サイトの更新で、思わぬ不手際に手間取ってしまいご迷惑おかけしています。最近ブームの「ブログ」を利用すると、こんな面倒なことにはならないんでしょうけど、これも仕方ありません。こつこつ手作りしているサイトなもので、うまくいかないこともあるみたいですが、どうかおつきあい下さいますよう。
<目にとまったあるサイトの一節> 感動とは、三人称で感じる感情ではないと思う。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
思いつれづれ その五 |
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25 aout 2008
休みも早 後半
17歳なので、人間にするとかなりのお歳になりました。以前にも増して睡眠時間が一日のほとんど、お散歩も天気が良ければ、少し程度。見た目は変わりませんが、ちょっとづつ無理ができなくなっているのがわかります。ほんとのところの会話はできないので、願うだけですが、Michkaにとってもここにいることが幸せであって欲しいなと思います。 パソコンの前にいるときは、こうしてとなりの椅子、私の膝の上を 行ったり来たり、これを書いている今は、この椅子の上で丸くなってお休み中です。
久しぶりに Topics の 雰囲気変えてみたんですけど、いかがなものでしょう?ほんとうは、もう少し手を入れたいのですけれど、焦らずにやろうと思います。
これまでのTopicsへも リンクできるようにします (言い切ったけど、実は希望。できるかなーー)皆さんのパソコンで 見ると、おかしいぞ! 変だぞ!というときには、どうぞ BBSの方へ ご一報ください。これも、シンプルに見えてる割に、手間かかってんのよねー。色だとか、サイズのバランスとか、でも 近づいてみたり、離れてみたり、いろんな風にしてみると、面白い。それほどかわりばえしないけど、まー気休めです。ホッ!でも、時間があるって ほんと楽しい。
普段できない、写真の撮影とかいろいろ引っ張り出してやってます。結局、ボーッとなにもしないでいることは、ほとんどないんだけど楽しいからいいんだ!
思いつれづれ その弐
力を入れることと、力を抜くことは、相反した動作のように思えるけれど、少し違う。力を入れることは、目的として行う動作で、力を抜くことは、ある状況がもたらす結果という違いがある。なので、難しさが違うんである。眠ろうとすることを意識すると眠れないという例が一番わかりやすい。夜、寝るときにはいつも、フランス語の文法の本を広げて、チェックをするが、ものの5分もしないうちに、眠れる。よく眠れるが、上達はしない。あれ?
思いつれづれ その参
ふとしたときに、そう言えば・・・と 思って気づいたんだけど、人のことをうらやましいという感情で見ることが少ない。もちろん ”ええなーーー ” というのは、いっぱいあるんだけど、うらやましいのとは少し違う。自分に自信があるからというのでもない。負けん気が強いところは、自分以外のものと比較して生まれる感情であるものの、結果的には自分が悔しいので、誰それには負けたくないという発想ではない。
「うらやむ」を広辞苑で引くとこうある。うら‐や・む【羨む】
〔他五〕(「心(うら)病む」の意)
(1)人の様子を見て、そのようにありたいと思う。古今和歌集(序)「花をめで、鳥を―・み」
(2)人の境遇・資質などが自分よりよいのを見てねたましく思う。ねたむ。推古紀「嫉妬(うらやみねたむこと)有ることなかれ」。「他人の幸福を―・む」
広辞苑 第六版 (C)2008 株式会社岩波書店
どうも、嫉妬するという感情が苦手なんだ。おなじことでも受け止め方が違うと、うらやむ、ねたむ感情へむき、自分がどうありたいかよりも、他人が基準になり、その先は人からどう見えるかが基準になってしまう。こうして考えてみると、日本ではそう言う基準がフランスに比べると多いような気がする。フランスでは自分に自信のある人が多すぎて、かさが高いけれど、他人のことは他人のこととしてあまり関心を持たないところがある。それはそれでもう少し人のことも見るといいのにと思うことはあるけれど、陰湿な感情は少ない。私にとっては楽だといのはいえそうだ。わかった風に書いてはいるけれど、正直、常に複雑な感情を割り切れる訳ではないのも事実、年齢と共に、自分なりの割り切り方を身につけているのかと思う。自分が変わっていけるなら、いやなところにも目を向ける勇気がいるものだ。でも、ほんのささいなことだったりするけれど、自分を変えることよりも、なぜそうしてしまうのかを観察して、そう言う自分をまず知ると、ああ自分は今こう思っているんだというようなことが少し客観視できて、受け止められるようになると思う。そういうとことろから少しづつ変われるかもしれないと思う。だから、成功したとかできないとかいった結果を照らし合わせた見方とは違って、充実度みたいなものかもしれない。自分でもわかっていて、どうしようもない というのが、自分そのものなんだろう。まっ それはそれで いいじゃないかと思う。この4月に日本に帰ったときに、久しぶりに会った友人と話が弾み何度となく彼が言葉にした「切ない」という言葉の響きが、今までになかった受け止め方をしている自分がいた。言葉は知っていても、自分が使うには取るに足りないレベルといったらいいだろうか。だから、体を通して感じている生きた言葉になっていて、とても新鮮だった。もっと歳を重ねていくと、こういうことも少し増えていくのかもしれないとおもうと、うれしい気がする。
いつも一緒 ずっと仲良し
そうそう 書き忘れないうちに 少し前まで表紙に使っていたこの写真は、サイトがきっかけでお友達になったイギリス在住の日本の女性が撮ってくださったもの。こうしてMichkaと一緒に写しているものは皆無と言っていいくらいなので、すごくうれしい。御本人に許可を得られたので使わせていただくことにしました。
久しぶりの会話
休みにならないと、ゆっくり会うことのできない友達をうちに呼んで食事をしました。この日の前菜盛り合わせは、生ハムメロン、山羊のチーズ包み焼きハチミツがけ、プチトマト(なにもしないでそのままで、とっても美味)茄子の中華風マリネ お庭で シャンパンを開けて、乾杯〜〜
なにが食べたい?と 聞いたら 天ぷらがいいなー ということで、用意しました。大人数だと天ぷらは大変ですが、少人数のときは、その場で上げるだけで、ご馳走に思ってもらえるので、かえって楽に思えます。海老、さつまいも、クルジェット、赤ピーマン、茄子、用意した掻き揚げは、ちょっと多かったので、食事が終わってから、ゆっくり揚げて お持ち帰りいただきました。翌日に 天丼風にして食べるといいよ!とおすすめしました。
ウインドーショッピングというのも久しぶりです。買うわけでもなくいろいろと見て回ると、フランスのデザイナーの和をイメージした食器です。なかなか日本人が見ても違和感のないものというのは少ないのですが、これはとてもいいバランスでいいなと思いました。値段?もちろん見てません。きっと かなりお高いでしょうね
こちらもそのシリーズ。フランス人にとって一番ためらう動作とは、お茶碗のように直接食器に口をつける習慣がないことです。器を手にとって口に運ぶというのは、飲み物以外ではすることがないのですね。食べる姿というのはどうしても素になりがち。楽しんで食べることが一番ですが器を持つ手、お箸の使い方も綺麗に越したことはありません。できるだけ、日本料理を美しく食べる姿もさりげなく、見せることで日本文化を伝えたいもの
19 aout 2008
休日3日目
夜の遊園地
休みのパリはたくさんの観光客で賑わっています。チュイルリー公園の遊園地も夜遅くまでたくさんの人 人で賑わいますいます。この下にある写真が遠くから全体の様子。でもよく見ると手の込んだ綺麗な絵が施してあります。こういう細かいところにフランスらしさが感じられますね
怖い 楽しい 異空間
大人子供を問わず人気の乗り物 大きなブランコが 微妙に角度を変えながら 旋回します。高いところが苦手な私にはあまりうれしくない乗り物です
どっちがいい?
便利になるのと 面白くなるのと どっちとる?
便利になるということは いろんな統計を取って統一化されることなんだとすると、例外や 予想外なこと そこにしか存在しないような物事が どんどん少なくなって そのものらしさとか 言葉にできないような微妙なものがなくなっていくんだろうか。フランスに来て、楽になったもののひとつにお中元お歳暮のシステム。感謝の気持ちをどうやって伝えるかの部分を追求する前に、感謝=品物=パンフレット=送料無料 などど、どんどんお得感の強いものへ、感謝の気持ちが変換されて、でも、まっいいかってことになる。今の時代 感謝の気持ちは 別にお中元お歳暮の時期にしなくてもいいと思う。きっとその方が、みんな考えるから、感謝の気持ちが伝わると思う。どうでもいい話かもしれないけど。外国にいると特にそう言う国の習慣とかが形を変っていってるんじゃないかと思えるんです。売る側は売る側で売らないとどうしようもないし便利にするために、違うところでどういうんだろう、矛盾が起こってる。便利は適当に止めないと、流行という乗りに変わっていくところがないだろうか。自分自身が 普段こんなものがあったらいいなと思っていたところで見つけたものは、きっとすごく価値があるけど、便利というのはとても騙されやすい。だって、便利な気がするもの。フランスに来て、魔法瓶とか(この呼び名って古いの?)家庭にないし、不便だと思ったこともない。こういうことも、また少しづつ変わっていくんだろうけど。ヨーロッパはユーロに変わって確かに旅行するのも楽になったし便利になったけど、その国にしかないお金を触っただけども、ちょっとドキドキして使っていたのは、悪い思い出ではない。今はマグドナルドが世界中にあるし、手軽だし、安いし、でも、便利は適当にしないといけない。本来 人間に備わっている感みたいなものも 鈍くなって みんな同じになってしまうと その先は どうなるんだろうか 不便さは大変だけど 程度を越すと笑える。それなりに 解決していくしね。今の便利さは、人の本来持っている感を鈍らせるし、自分が変わっていけることの面白味に欠けると思う。
無理に便利にすることもないと思う。どこまでが便利かという判断をするかも、それぞれ違うと思うから 難しいことだけど、適当に面倒なことがあっていいと思う。便利になって 面倒になることもあるわけだから みんな お互いの顔や声や いろんなものをかぎ分けて 理解し合うのが いいような気がする ちょっと お酒飲んでるけど 結構真剣にそう言うことを考えている
もっといろんなこと 書きたい
眠くなってきたーー
きっと あと 10年もしたら 時間ありすぎるんだろうなーー
バランスとるって難しいね
奥が深いよ!
どうしたいのがはっきりしないと バランスとる意味ないしね。やっと 夏休みなのに テンションが妙にシリアスで ダメだなー。フランスは もうじき 秋って言うか冬に近いよ
どうするの?
かき氷とそうめん
さすがに フランスでは 食べたいと思わないなーオリンピックの使用言語
お気づきの方もおられると思いますが、現在開催中の北京オリンピックでのアナウンスされている言葉は、まずフランス語なんですね。私も知らなかったのですが、その由来については 上のオリンピックの使用言語 上の文字をクリックして見てくださいね
それと ちょっと面白いサイトを見つけて あなたの絶対味覚度をしらべますというのがあって、やってみたんですけど。興味のある方是非やってみてはいかがでしょう。 こちらをクリックしてみて下さいで、私の結果を参考までに どうぞ。
あなたは 絶対味覚度79 %です
レベル5。(ちなみに 最高レベルは 6)
一流シェフ級です。
旨いものを食べるのも作るのも大好きなあなたの食へのこだわりはなみなみならぬものがあります。
男性の場合、経済的に余裕がある場合は、料亭の常連客となり、料理人を呼んで「今日は堪能させてもらったよ」などと言う好々爺になるでしょう。
女性の場合、料理研究家になったり、創作料理を他人に教えたりするでしょう。社交性がない女性の場合は、家庭内でこだわりの料理を作ります。お客さまへのもてなしが無上の喜びとなるでしょう。
これからも研究を重ねて食通の道を進んで下さい。はい、わかりました!
真夜中のエッフェル塔
6月から6ヶ月間フランスが EU議会の議長国を勤めるのにあわせて、6/30~8/30の期間限定でエッフェル塔がEU連合の国旗の色、青色にライトアップしています。深みのあるブルーで 内側から照らされているので立体感が強調されてとても美しいです。
17 aout 2008
そして もう 今は 夏
自分でも予感していたもの、厨房の仕事は、今まで普通にこなしていた他の作業が、全く手につかなくなってしまうほど、生活のリズムが変わってしまうもののようです。でも考えてみれば、家庭で家族の食事の支度を朝昼晩と一日に3回する作業も同じことで、気が付くと一日中料理をしているような気になったりするんだから、そうなるのも無理のないことかもしれない。日本での充実したワークショップを終えてパリに戻って、2日後にはフル回転の仕事が待っていて、それがやっと昨日、ヴァカンスにはいり、自分だけの時間が過ごせるようになりました。休みとは言っても、4月を中心に日本で行ったワークショップの細かい事務作業や、お世話になった方々へのお礼の手紙も書けないままになっているし、今後の展開にあたっての資料を整理したいし、パリでも踊りの仕事が展開できそうな状況になってきているので、普段厨房にいるときにはできないことが、山ほどあって、手放しで”休み”というわけにはいきそうにないのですが、朝 目覚ましをかけずにいられることぐらいが、なんとなく休みという感じでしょうか。気が向いたら、このTopicsに書こうと尻切れトンボになっている文章が細々あるのを、ランダムにこちらにアップしようと思います。少々支離滅裂なまとまりになりそうですが、そういう事情ですので、お許しを!
休みに入った昨日は、うちの店でもコンサートとして演奏に来てくれたミュージシャンが、チュイルリー公園の横に特設されている遊園地のテントの中で夜演奏するというので、オットと友人達と行ってきました。ジャズマニューシュというジャンルの音楽で、ギターの音色が独特の哀愁漂う魅力のある演奏です。皆さんも きっと耳にすると あっ、あの音楽と思われるんじゃないかと思います。実はオットと彼らのつながりは20年以上になるらしいですが、彼らの魅力をなんとか伝えたいとオットがその頃仕事をしてた店に演奏を呼びかけたのがそもそのもの始まりだそうです。今では インターネットで Jazz Manouche と検索すると Moreno彼の名前がさっと出てくるほど 知る人ぞ知るという存在で、三宅一生や山本耀司 アニエスベーなど、デザイナーたちのコレクションの際には、演奏 兼 モデルとしてもその舞台で顔を披露するなど、一緒に話をすると、いろんなエピソードがどんどん飛び出します。ついこの間は 東京バレエ団がベルサイユ宮殿の庭園で踊りを披露した際のレセプションでも招待されて演奏したんだそうです。どんなに有名になった人でも、はじめからということはほとんどなくてそう言う時代があって今があるということですね。オットがその火付け役になったといっても過言ではないようです。今はギャラもかなり高いそうだけど、その頃は、おなかをいっぱいにしてあげるからという交換条件でもちろんタダで演奏をしたんだそうです。日本流にいうと”おなじ釜の飯を食った”とでもいえるような関係は話もいい格好ができないので、逆にぶっちゃけたはなしができるので、聞いている方はなかなか面白いものです。ちなみにオットはこういったミュージシャンを発掘して彼らの演奏の場を作って広めるというようなことを好きでずっとやっていたようで、かなりたくさんのミュージシャンとの交流があります。興味がなければふ~んというだけのことなのかもしれませんが、心底好きという気持ちは人の心を動かすものだなと、傍目ながら感心してみています。現在 彼らは4人でグループを組んでいて、メインのギターがMorenoで、奥様が歌を歌われます。ハスキーでダイナミックな歌声はなかなかのものです。夕べは見に来ていたお客さんの中で誕生日のお祝いに集まっているグループがいてそのメインの男性が3年前までBejartのカンパニーで踊っていたというダンサー。演奏される音楽が人族舞踊の独特のテンポがどんどん速くなっていくのりに即興で踊り出して、それがおおいに盛り上がり、売店のおばさんや他のお客さんまでが踊り出すという生ならではの楽しい夜でした。
ちょうどそのMorenoの演奏している映像を見つけたので、紹介します。この映像はかなり前のものと見られますので、現在はもう少し渋めのいい雰囲気がプラスされています。
思いつれづれ その壱
人はいったい なにをどのように見ているんだろう。
視力で計る見る能力とは別にその人の価値感や好みなどの個人的な要素が加わって見る動作が成り立っているように思う。ただ何となく眺めているときと、その表面より深いところまでを想像しながら見るのとでも、ずいぶん違うんだと思う。思いこみが入りすぎても、ものは見えにくくなるものだし、実に微妙だ。
「あの人 誰それに似てる!」って言う会話で、同じ人を見ても全然似ていないと思う人もいるし、似ていると思う人もいるし。他人の目に変わるってあり得ないけど、興味がある。どんなことでも続けていると、はじめ見えなかったものが見えてくるものだ。見えるものもその時の状態で少しずつ加わるんだろうか。それとは別に、第一印象が 当たってるということも良くあると思うけど、見たことと脳の中での何かの情報が響きあって、何かの手応えをつかみ取っているような感覚。そういうのも面白い。初めて目にするものをさっと第一印象で捕らえるのは、簡単そうだけど 意外と難しいと思う。自分には見えるのに人には見えないものを伝えるのは、すごく難しいし、逆に相手が見えてみるものを想像から観点を変えて、違った見方をしてみるのも、簡単ではない。いずれにしても、見るということも、人それぞれみんな違っているんだと思うと 結構複雑なんだなーー。でも だから 人と話をすると面白いのかもしれない。人それぞれに興味の持ち方が違うから、情報として 目に入ってくるものの質と量が当然違ってくるわけで、一番に好きなものの情報は多くなるだろうし、当然、微妙な違いが感じ取れるようになる。例えば、黒っぽい服が好きな人は、そうでない人から見るとみんなおなじに見えるものも、その人が見ると全部違うんだよな、きっと。こだわりというのは、見え方も聞こえ方もみんな変わっていくんだよなーー。でも 一人で楽しむ分には全く問題ないことだけど、それが人と関わってくるようなもののなかで、それらがマニアックになっていくと、少し人との距離があいてしまうかもしれない。だから、人と人がお互いに理解し合おうとするとき、相手の見えているものを理解してみる柔軟さはどんな歳になっても大切だろうと思う。難しいけどね。考えがこう進むと、俳優って言う仕事のおもしろさもわいてくるなぁ。違う自分になってみる。これって すごい経験だよなーー
話題を少々変えまして、つい最近、パリ情報のサイトでうちの店を取材していただく機会があり、その記事がそちらのサイトで、紹介されています。たくさん書いてくださっているので 是非 ご覧下さいね
南部鉄
最近は 朝一番にコーヒーを飲んだあとは すっかりお茶党になっています。こちらでも手に入りますが、日本から来てくださる知り合いの方々からも、たびたび良いお茶をちょうだいするので助かります。気に入っていた急須が修繕を繰り返しくたびれてきたので、一度使ってみたいと思っていた南部鉄のものを買いました。これなら割れないぞ!というか、これで 他のものが傷ついてしまうことがなきにしもあらずですが、シンプルなデザインが気に入りました。調べると、それなりの使用手順がありまして、それからして 風格が違います。良いものを長く大切に、それと、忙しくても 少し落ち着いてゆったりとお茶をいただく、そういう心持ちを失わないでいたいという思いを込めて、今日も一服、ほうじ茶でも入れましょう
ワイングラスは定番で使っているシンプルなものがあるのですが、お手軽な価格で 風合いが気に入り買ってしまいました。一脚が600~700円ってところでしょうか 買ったのはいいけど どこにしまおう・・
上の写真 お店でお客様に見せるメニューです。 フランス語を話すことができても、なかなか書くとなると面倒なんですが、うちの男性従業員に日々変わるこのメニューを書かせると言っちゃー悪いが不揃いすぎてせっかくの料理の印象がまずいんじゃないかと、買って出ました。”私がやる!”これも慣れるのに少々時間がかかりましたが、ずいぶん早く書けるようになりました。昼と夜 毎日 書き換えます。フランス語のお勉強を兼ねて一石二鳥!って、またしても 自分の仕事 増やしてんのよねーー