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19 octobre 2009
 
 また 逢える気がして
 

ちょうど こんな季節だったなー 
朝起きると、澄んだ空気に、暖かい太陽の光。
去年 Michkaが亡くなって 1年がたった。今も、毎日 思わない日はない。あのときと同じように、花を買い、庭に供えた。オットと、ふたりで 花の前でわずかの時間だったけれど過ごした。「まるで昨日のことのよう」と 思わず口にした私は、やっぱり悲しくて、少しばかり涙が出てしまった。そんなことは知らない Luna は ひとしきりまわりを駆け巡り、珍しそうにそんな私たちをのぞき込むようにしたかと思うと、遊んで欲しいらしく、ちょっかいをかけてくる始末。でも、そういう、無邪気な仕草に どこか救われているんだなと思った。わかるはずのない Luna にも、あなたの来る前に、こんな猫がいてね・・・と 話しておいた。

「うれしいときも、悲しいときも 互いに分かち合い・・・」と言うフレーズ。結婚の儀式には、どの国でも決まり文句のように使うけれど、うれしいことや楽しいことは、そこに至るまでがどんな複雑で難しいことであっても、ある瞬間にそれを超えると、物事は解放されシンプルな方向に向かうのに対して、悲しいこと辛いことと言うのは、どんなに分かち合おうと思っても、本当のところ当の本人にしかわからないという部分があって、より悲しいというところはないだろうか。悲しさや辛いことにはその入り口があって、出口にたどり着くまでの時間がかかる。でも、だからこそ 悲しいことは、その時間と共に、たくさんのことを気づかせてくれる貴重な体験だとも思う。悲しいのは、それまでがどれだけ充実し楽しかったかの比率によって度合いも変わるんだろうし、悲しくなるのがいやだからもう動物を飼わないという気持ちもよくわかるけれど、できれば乗りこえる勇気を持てるといいなと思う。世の中には、その悲しい辛いことばかりが身に起こり、何かを期待することさえ拒否してしまっているような表情の人を見かけることがある。確かに自分ではどうしようもないことがあるのも事実だし、もちろんその人を非難する権利もない。

Michka

夜は ろうそくを灯し、少しカーテンを開けておきました。写真は暗くてよく見えませんが、花のちょうど右上の方に Luna が 一緒にいます。
大胆 アート

セーヌのちょうど ポンヌフあたりから、堤防沿いに 巨大な人の目!! 最近注目されている若手写真家の作品です。ちょうど 彼のドキュメントを2,3日前に見ていたので はじめはびっくりしましたが、彼ならやりそうです。この下の写真も同じ 小さいサイズだと よくわからないので 大きくしてみました
 

私は昔、生徒達に ”どんなに辛くて悲しくても、空を見上げると青空が広がっていて それを きれいだぁ〜〜 とか、花を見て美しいと思う気持ちがあれば 乗りこえられる”と そんなことを話したらしい。そんなこと言ったの?と 今聞かされてふ〜んと思い出してみるけれどあんまり記憶はない。逆に 他人が言ったことのように聞こえて、ほんとにそうよね。と変な共感をしてしまう。今も そう思う。心 豊かにいることは、まわりの環境に埋もれてしまわない勇気もいるし、自分自身との葛藤であったりもする。考え方を変えてみる。どれも自分次第なんだもんなー。

 

 

写真アート(上の写真の 続き) 
セーヌの堤防の高さに、メトロが収まり、それに人の目が重なっています。どうやって 書いたの? と思いきや、プリントアウトした紙を貼り付けているのです。でも サイズをはかって、調節したりも サイズが半端じゃないので たいへんだったと思うし、多分 夜中 早朝に 作業したと思われます。観光船が通ると、一斉に カメラを手にする人が立ち上がり、シャッターを切っていました。で、私はと言うと、オットと 19区に タイ料理を食べに行く車中であります。あわててカメラを取り出し、設定調整して シャッターを切る、そのわりにましに写ってるね

 
       



28 septembre 2009
 
子を思う こころ 
 
小銭入れ

とあるオーダーメイドのお店に お願いして 作ってもらったお財布。使い込むほどに自分の動作に馴染んでくるのがわかる。皮の良さはそういうところだろう。
異様な盛り上がり

写真はかなりぼけているのですが、これは車で通りかかったマレ地区の ホモセクシアルの人たちが賑わうお店の前。この一角だけが蜂の巣のように人だかりです。なにも そんなにみんなで固まらなくてもいいのに・・私は差別してる気ないけど、おめぇさんたち 目立ちすぎじゃねぇの?

 

わからないから、おもしろいよね〜 と言う発想は、ネガティブな状態の時には、思いつきにくいもの。わからないことを受け入れることができて、おもしろいと言えるようになるまでには、時間がかかる。高校生くらいの時から、どういう経路でそういうイメージをつくりはじめたのかは思い出せないけれど、「チャンス」というのは、たいがい突然訪れるもので、そのときに 即座にゴーサインを出せるかどうかは、普段の心の持ちようで変わるものだとずっと思っている。チャンスの訪れる回数の多い人というのは、それがチャンスだと思える本人の状態にもあるような気がする。消防隊が常に待機している状況にも似ている。どういうものが来るかはわからないから、とりあえずは、情報もいろいろ持っていると、ズバリ チャンスそのものではなくても、それに近いか、遠いかくらいは、判断できたりするので、間口も広がる。「チャンスがある」「チャンスがない」と言う言い方は、受け身な体制から表現しているから、意味そのものはわかるけれど、なんだか違うなと思う。まっ 何事も 受け身になりすぎないように、自分の間口も広げて、自分なりの努力もしながら、のほほんと過ごすのがいいなと そんなことを思います。それにしても、今年の9月はなんてお天気がいいんだろう。初夏に戻ったような陽気でうれしい。フランスでは冬が長いので、太陽に対してのあこがれも強いようで、ヴァカンスに戻ったようなこの陽気に、仕事帰りの人が、カフェのテラスで長々とアペリティフを飲んでいる姿が見られる。ただここで、いただけないのが、厨房で仕事をする私としては、店に来られるお客様が、このアペリティフが長く、もうそろそろ食事に入ろうかしらと思うタイミングが一斉に重なり、暇をもてあましていたのもつかの間、今度は嵐のような注文が殺到し、わずか1時間ほどの間、私の腕は千手観音のごときのフル回転の体力勝負になってしまうのです。日本のようなお客様にサービスするという感覚は少なく、対等なニュアンスがあるので、これでもまだ、ストレスは少ないのかもしれないけれど、お客様のわがまま度も、筋金入りです。ついつい 厨房で愚痴をぶちまけて、最近はその手のフランス語のボキャブラリーばかりが上達しているんじゃないかと思われます。何事もほどほどにですね。  
 

先日、店で貸し切りの 誕生日パーティーだった。お誕生日を迎えるヒロインは、うちのアパルトマンの上に住む、お医者さんの娘さん。実は私たち夫婦ともに、お世話になっている主治医で、普通なら予約を取って診てもらわなくてはいけないところ、いつもわがままを聞いてくださり、よく駆け込んでは治療してもらっています。で、そのお嬢様、今年は18歳と言うことで、この企画になったわけですが、私がフランスに来たときにはまだ10歳にならなかったわけですから、その成長ぶりにはもう、驚くばかりの今日この頃。お母様は昔、ヨウジヤマモト、の モデルで 日本でもしばらく、仕事をしていたというお綺麗な方。ですから、当然 お嬢様もちょっと目を引く美女であります。最近はお化粧なんぞをおぼえた様子で、声をかけてくれなくては私は全く気づかない状態です。当日は、彼女の友人達が大勢詰めかけることになるので、ご両親ともハラハラどきどきのご様子。結局のところ、今回のパーティーは 今時の娘の行動を把握しきれない両親が、娘の交友関係を垣間見れる貴重なイベントとして企画されたと言っても大げさではない。お母様は一つ一つのテーブルに小さなブーケの花を置き、お父様は パティシエに注文したケーキを店に運び、当のご本人は結婚式の披露宴なみのご準備で、最後にご到着される様子。ここまでは私も、さすがお医者様のご家庭ですこと! と 半ば他人事のように見ていたのですが、これから一人の大人として娘を旅立たせる 一つの区切りとして親としてできる精一杯のことを たくさんの友人達の見守る中で素直に表現されていて、いつのまにか 感動に浸っている自分に気づき驚いてしまいました。日本の行事として行われる「成人式」よりも ずっと本質を得ている。私の友人でもあるその母親は、店に到着するなり、「昨日から なんだか寂しくてね だって 私にとっては ずっと 赤ん坊なんだもの」と ぽつり。正直な気持ちを包み隠さず それでいて、子離れを決意している。一番 心に残ったのは、最後に バースデーケーキでお祝いをした後、普段なら 厨房で 人数分にケーキを切り分けてサービスするのが私の仕事なのですが、この日は お父さんが 慣れない手つきで一生懸命に 全員一人づつに ケーキを切り分け 彼らに手渡していたのです。ちょっと この光景には じーんと来てしまいました。人それぞれ、家によっても 親子のつきあい方というのは違うものですが、わかっているつもりのことも、表現するとしないのとでは、ずいぶん違うんだろうなとそんな気がしました。
実は、私がこの日、感動した理由というのは もう一つあって、このご夫婦、2年前に 離婚されているのです。離婚を決断したことと、子供にとっての両親の存在をしっかりと区別し、子供達の前では自分たちの事情をは関係なく両親としての任務をしっかりと果たし、今までとは違う形で協力をし、子供達と接していることに 努力を感じ、すべてのことをよい方向に向かうための経験としてしっかりと前を向いている そういう姿勢が素敵だなと 思えました。子供達も、そういう大人の事情も理解できる年齢、そういう姿を見ると、自分たちも両親のことを理解したいと思うだろう。今では 離婚は珍しいことではなくなっているかもしれないが、そのことで一つの家庭で起こっていることは、それぞれに複雑で、珍しいことではないと一言で片付けられるものでもない。子供がいるから離婚せずにいる というのも 本当だろうし、離婚をしても 自分たちの決断にしっかりとけじめをつけ、正直に接する姿を見せることも、きっと 子供達の成長過程で大切なんだと思う。フランスでは 人のことをとやかくも言わないし、逆に言うなら正直に思うことをはっきり言う習慣があるのは、物事が複雑化しすぎない理由かもしれない。日本では 自分たちよりも世間体の方に比重が置かれやすく、「本当のところ」が 解明されないまま放置されていることが、多いのではないかと思う。半熟卵か 温泉卵か って 感じですな。ともすると、大人げないと非難してしまいそうなフランス人の振る舞いもこういう「けじめ」という角度で、しっかりと自分を他人を区別できるのは、いいことだなとそんなことを感じた一日でした。

 
ままごとセット

ブロカントは 日本で言う がらくた市のようなもので、プロが店を構えるものや、ごく一般庶民がフリーマーケットののりで品物を並べるような場合もあります。今回のは それらが入り交じった感じです。どこの国も 子供のおもちゃは時代背景は違っても、懐かしものがあります。さすが グルメの国 フランスのおままごとセットは 子供用にするにはもったいないほどよくできています。こんなのが欲しくて、夏のお祭りの屋台ですわりこんで眺めていた自分が、蘇ります。
はてな?

これも ブルカントで 見つけた品物。なんだと思います?さすがワインの国ですね。これは ワイングラスを綺麗に洗った後に 拭き取る機械です。洗車用のシステムのミニチュア版とでも表現できるでしょうか。
 
       




24 aout 2009
 
このままの私で これからも行こう
 

前回、書いたTopics ↓ の中で、「忙しいときほどいろんなことを思いつき、アイデアや発想が脳裏を横切る」と言うことを書いたのですが、ちょうど見ていたサイトで、今 注目の脳科学の先生 茂木健一郎さんの話で、集中後のリラックス時間に、脳は発想する という行動に結びつきやすいというような 話をしていて ちょっと 驚いてしまいました。確かに、私が何かを超えたかもしれないと感じていたことも、思いつきが次々と出てくる状態も、その説明そのままなのです。一見仕事に集中できていないような状態のようで、実は その どうでもいいこと の存在が 自分には クッションになっていたり、どうでもいいとは言いながら それはそれで 自分ののとりまきには必要な質感であったりするので 脳の働きというのはすごいんだなと思いました。きっと 自分が賢いかどうかというよりも脳そのものの働きをうまく使ってあげられる自分がいると、ある程度みんなお利口さんなのかもしれなくて、単に頭がいいとか悪いとかと言ってしまうのは、違うのかもしれないなと思いました。

さぁて1年ぶりの休みが始まり、ほんとにほんとに休みたかったので、はじめの2,3日は呆然と過ごし、それからは睡眠と食事、映画鑑賞、読書 の繰り返しのみで、気がつくと2週間があっという間に過ぎてしまいました。考えてみると、フランスに住むようになってからの8月は休みと言っても、友達や家族がパリ観光がてら我が家に滞在することが多く、下宿のおばさん状態が続くことが多かったので、オットと二人で過ごすというのはすごく久しぶりでした。時々口喧嘩はしたものの、なんとかゆっくり一緒に過ごせたのはよかったなと思います。さぁて、前置きが長くなってしまいましたが、今日のTopicsには、書き残さなくてはいけない大切な出来事がありました。もうかれこれ6年越しになるのですが、フランスでのバレエの指導免許の申請をしていたのですが、なかなか前に進む気配がなくあきらめていたのですが、8月に入ってすぐに、許可を認める書類が届き、晴れて指導者として認められ、仕事を展開できる状態になりました。今までは、私の先生の代講を努める範囲でしか、行動できなかったのですがこれで、やっと、自分のペースでの仕事展開をしていけそうです。レストランの方あるので、うまく調整しながらと言うことになりそうです。

14 juillet 2009

今年のパリ祭(7月14日)は エッフェル塔が建てられて120年とかで、盛大な花火が催されるというので、行ってみようと話していたのですが、あまりにもすごい人で、断念したのがきっかけで、近所の友人でアパルトマンの最上階に住むちっとばかしお金持ちの彼女がうちに来ない?と誘ってくれて、それはもう王様気分でシャンパン片手に 堪能しました。彼女の部屋からは、なにの障害もなく、真正面にエッフェル塔が見えるという環境。あまり近くにいると逆によく見えないと言うことも考えると、これ以上の場所はないんじゃないかと思うほどの条件でした。あの高いエッフェル塔のてっぺんにどうやって花火を仕掛けたんだろうと思うと、スリルもたっぷり。本当にきれいでした。
 
Diplome

初めて手にする自分を証明してくれる大切な書類
徐々に接近の兆し

実に 微妙であります。Luna は 気がつくと、移動している私にくっついては来るのですが、私からモーションをかけると、いけません。即座に消え失せます。ただ 寝起きはかなり、無防備で、されるがままに抵抗をしません。庭で昼寝をすると、必ずと言っていいほど、そばの木に登り、私を木の上から見下ろすように眺めています。
 
ふと気がつくと、どうしても 昨年亡くなった Michka のことを、思い出してしまいます。悲しくて泣く、とうことはもうなくなりましたが、去年の今頃はちょうど苦しくなり始めた頃で、つらそうにしていたので、目が離せなくて、私も覚悟をし始めていたように思います。つくづく、いろんな意味で私を支えていてくれたなとあらためて思います。Lunaは いたってマイペースで、私たちを楽しませてくれます。まだ 1歳ですから 子供ですし、かなりやんちゃで、暴れ回ったと思ったら、廊下でごろりとお休みモードで、全く ペースがつかめません。でも、やっぱり 動物はいてくれるとほっとっしますね。

 

 

     


25 juin 2009
 
乗り越えて得るもの 
 

 

おねえさん!遊んであげよーか?

適当にかまって! って言っているかどうかは不明ですが、ほんとにちゃっかりしてます。完全に、負けてます、わたし。

「鼻水が流れていることに気づきながらも、ぬぐい取ることのできないほどの忙しさ」という表現はこ〜んなに長い放置状態が続いたTopicsの冒頭にふさわしくないかと思いつつ、お昼の厨房の熱気はすごいもので、はじめのころは弱音を吐いたものの、これが慣れてくると、いろんな意味でこれはこれでいいじゃないかと、この決して楽とは言えない環境もそれなりに受け止めている自分がいる今日この頃です。お陰様で店の方は、この不景気にもかかわらず、たくさんのお客様で賑わいほんとにありがたいことです。それにしても人間不思議なもので、その忙しいときほどいろんなことを思いつき、アイデアや発想が脳裏を横切るのです。まぁちょっとした興奮状態に近い感じなのかもしれません。ただ書き留める時間がなく、消えてしまうのが残念なのですが、そのためにもこのTopicsに書き留めておくことがどれほど、効果的かなぁんてことも思いこのサボり癖を治したいと、かなり真剣に思っています。どういうのか、確かに忙しかったんですが、ここ2,3日で、私、何か乗り越えた気がしています。うまく言えないんですが・・。自分が変わる。自分で変える、自分を変える。自分は変われる。心の五段活用とも言えそうなものが気持ちよく、受け止められてきて、ちょっとすがすがしい気持ちなんです。なんなのでしょうね。

フランスはこの日曜を境に、日照時間が短くなると言う暦です。現在は夜10時過ぎまで明るい状態ですから、日本に比べるとずっと明るい時間が長いのですが、冬が長い分、太陽に触れる時間はより貴重に感じるものです。

サイトのTopPage に 載せた写真でも、おわかりいただけたかと思うのですが、昨年、息を引き取ったMichkaに変わり、我が家のニューフェースの登場であります。ここでご紹介できるまでには、少々、葛藤あり、不安ありでしたが、現在で約5ヶ月を共に過ごし、なんかうまくいきそうじゃない!というところまでたどり着きました。遅れました、名前を紹介していませんでした。LUNA(ルナ)といいます。わたしが名付け親です。まぁこれが、おもろい性格の持ち主でして、未だ、把握しきれないのですが、互いに干渉しすぎない距離感を保ちながら、時にはじゃれ合い、時には、無視、あるいは知っているけど知らないふり を、適当な配分でバランスを取りながら、暮らしております。

 

 
LUNA です

ニューフェースとは思えない貫禄ぶり

どこよりも快適な 我が家の  
ちっちゃなお庭

最近 このベンチにいい角度にクッションを並べるとお昼寝に最高!というのを発見。申し訳ないほど 気持ちいいです。
 

物事を整理するときにある基準で区別をするというのは大きなポイントになると思うのですが、たとえば上下関係で区別をするというのは、手っ取り早くわかりやすい例。でもこれが、すべてそれだけで片付けるとどうも、納得いかないということが、時に下にいる側には起こるわけで、どこかで「対等」とか「人として」と言うようなところで向き合えるというのはお互いに理解し合う上で大切なことだと思うのです。なぜ、こういうことを書き始めたかというと、いろんなところでフランスの人は大人だなと言うこと(なぜ、日本人が子供っぽいか)を感じるのが、こういう点なのです。上下関係だけで区別をすると互いに依存心が働き、大人になりきれない と言うようなことが起こっていないかな〜〜。結局、自分自身に基準がないと、年齢とか学歴で区別して、これを基準にコミュニケーションが始まる。それって、安易過ぎないかなと思う。そういう壁を取り払うために飲むお酒もちょっ悲しいなー・・と、今日の昼、アントレの盛りつけをしながら、そのようなことを思っていたのです。単純に ポジティブな発想がどういうところで生まれ安いかを自問自答していたんですね。いやぁ〜〜ネガティブな発想は、いけません。第一 バリエーションが少ない。

余談ですが、ほんの一時、わたしはある人から、「楽ちゃん」(らくちゃん)という愛称で呼ばれていたときがあって、それを自分では密かにうれしいと思っていたことを思い出したのです。私を見るといつも楽しそうだからというような理由だったらしいですが、物事を楽にとらえる。「楽」、すなわち、「楽しい」 という方向への展開は、うまくできてるなと、そんなことをぼんやり  ね。

最近のヒット

うちの家から20メートルくらいにあるスペイン料理のレストランの一品。アーティーチョークとチョリソの煮込み 蜂蜜風味 と言うのですが、これがいけます!。これにサフランライスを注文するのですが、知らなかったおいしさです。すみません、ほんとわたし幸せです。
 
   


09 janvier 2009
 
自分を生かすと言うこと 
 

Tuiles (チュイル)

幸せって、こんなに身近にあるんだ!と 感動してしまうくらいのおいしさの焼き菓子 チュイル 砂糖 小麦粉 卵 溶かしバターをほんの少し に バニラシュガー 薄くのばして オーブンで 5分もすれば完成! ワインボトルなどの丸みを使って、形を整えたら あとは おいしいお茶を用意するだけ。

年明け 早10日が過ぎようとしています。

遅くなりましたが、

今年も一年 家族 皆が 健康で、実り多い年になりますように
そしてこのサイトですが、年頭ならば、気持ちだけでもさらにがんばって更新を増やしますのでとか書きそうなんですが、ここは正直に無理せず、今までのペースで気まぐれな更新におつきあいいただければありがたく存じます。いきなりですが、そんなことで、今年もよろしくお願いいたします

 

それで、唐突なんですが、こんなことを ぼーっと 思っていました

季節が四つくらい一年に変わるのは ちょうどいいなと思うんです。
もっと 細かく分かれていたり それを 気にして 10個くらい変わるのを感じていたら、神経質になりそうだし、かといって 2つしか変化のないような 極端な変化だと思い入れが激しくなりそうだし、なんかね そういう気がしてくる
季節が変わると 思い出す・・・・・・いいねぇ〜・・・・・・・・・
思い出させてくれるというのは 思い出すより がんばってない感じがいい よなぁ〜。フランスも、日本みたいに四季はあるのですが、私のいた大阪よりも、ずっと北にあるパリは、この四季の比率から言ってずっと、冬が長いわけです。だから、どういうのか、秋とか春とか夏が、すごく短くて、バランスがよくない。日本の湿気の多い夏もきついけれど・・。人の情緒というのは、こういう季節というものが大きく影響しているんではないかと思います。こういうことを書くときと言うのは、ちょっと日本が恋しいという現象なんだろうな・・と、そんなこともふとおもったりします。

 

昔日本は、今ほど 外(日本以外の国)にあるものが、見えなかった頃、いい意味で内側にあるものをよく観察し、大切にしたんだろうな。きっと、昔の人は今よりもずっと心が豊かで、我慢強くて、ものには恵まれていなかったかもしれないけれど、自分の運命を素直に受け止めていたのかもしれない。それらのことをたとえば絵にしたりとか文章にしたりとかかたちで残すことは少なかったかもしれないけれど、胸の内に秘めていたものはたくさんあったと思う。仕方がない と あきらめることも多かったかもしれないけれど、今ほど、まわりのせいにしたり、まわりに当たり散らすようなことはなかったんだと思う。「昔の人」「今の人」という言い方をしてしまったけれど、人という生き物そのものが、時代を経て、経験によって変わったというものはほとんどないんじゃないかなー。科学の進歩やたくさんの分野で解明されわかってきたことがあるお陰で生まれてきた様々なものに、ついていかなければいけなくなった部分もあって、ひとりひとりが本来持っているスピードがまわりと合わせにくくなったような気がする。ものの価値というのも、ゆるがない本質というところでとらえられていたらしなやかに順応できるのかもしれなけれど、それも先端にあるものが優先されるような風潮になっていないだろうか。様々な分野での、文明の進歩によって生活水準は高くなったと言えるのかもしれないけれど、人という生き物そのものが進歩したというのはあまりないと思う。たとえば、クラシック という分野も、昔はクラシックじゃなかったわけだし、それにクラシックは今触れても、新鮮で驚きがあって、古さを感じさせない。古いとか新しいとかではなくて、”ホンモノ” なんじゃないかと私は思う。今も昔も変わらないもの。私はこうして日本以外の国で生活をする経験をすることが、少なからずいろんなことを気づかせてくれることになっているのは事実だ。外国へ出ると自分で望んだと言う動機はあっても、それに付随する出来事すべてがそうかというと、もちろんそのなかには気の遠くなるほど、仕方ないことが山ほどあったりする。今はそれの一つ一つを分析するつもりもなく、まぁ 何となく前を向いて、よそ見もしつつ、こんな感じかなと匂いをかいだり、味わってみたりと五感ををはたらかせて、くんくんしながら歩いている感じ。仕方ないと思うより、仕方ないからどうするかという発想の一歩先まで行って、能動的に自分から進む方が、結果的には効率もよかったり、ある程度でけりをつけて切り替えるという判断も楽にできる。その方が楽なのだ。物事、それをどう受け止めるかというのは、そのときの自分であったり、そのときの状況であったりで微妙に変わっていくんだろう。難しくも簡単にも自分の考えをとらえることができる人の能力は実にすばらしいと思う。こういう私も実際の毎日の私の行動をみると、仕事に追い回されて忙しく走り回ってはいるんですが、それも遠くからみると、こんな感じがするんです。日本に戻り仕事をしているときによく思うのは、時間の過ぎ方が違う。みな分刻みで、正確に刻まれている感じが、どうも、自分のリズムを監視されているようで忙しくなくても忙しく思ってしまう妙な感覚。今の日本には、なくても困らないものが、氾濫していて、探しているうちに、自分がなぜ欲しかったのか忘れてしまう、そんな感じ。ものが欲しくなるのは悪いことではないけれど、それを使ってどうするかどうしたいのかという先の見通しがない。願望の距離が短い。簡単に身近に実現するものは確かにうれしいのはあるけれど、遙か遠くにある夢は非現実に近い感覚になってしまうのだろうか。私は最近、この年になって、いつかそんなことがあったら、それが叶ったらすごいなーと、思っていたことが叶っていることに気づいた。それも、そういえば、昔そうおもっていたなぁ〜 と ぼんやり思い出す程度で、だから 夢にしがみついていたのでもない。でも、忘れないでいてよかったなと思う。あまりにも目の前の現実ことだけと向き合っておわれていると、思考能力も近眼になってしまうんだなーー ほら!遠くの緑をみるって目にいいって言っていたのが、今はそうするのが精神的にいいって感じかな。パリにいても、オランダから来た人が”上を見なくても空が見えるんですよ!”なんて話してくれると、なにか今の話とは違うんだけど、へぇ〜〜っておもってしまうし、そう思った瞬間に、自分の脳みそに隙間がない感じがして、そういうのを”ストレス”って呼ぶのかなと思う。前向きって言う表現は、後ろ向きの状況の中で使うんだし、現実というのは、いいときにも、少しはあまりうれしくないことが混じっていたり、つらいこともあって、悪いときと思い込んでいるときにも、ちょっとポケットに手を入れると、うれしいことがあったりするものだと思う。全部 よくないこととか、全部いいことっていうのは、あり得ない気がする。そういうのが等身大だなと思うのです。全部をもちろん混ぜ合わせて中和させる必要もないけれど、どうすれば、よくなるかなーーと、考えるときに、すごく大事なことかもしれない。 

”自分を生かす” という表現は、思う以上に深いことだと思う。
自分のしたいことを行動に移すというような、直接的なものではない。 自分の願望とは別に、自分というものを見ているもう一人の自分がいて成り立つ表現のように思う。時として、自分がやりたいと思うことと、自分に向いていることとが一致しないことがある。向いていなくても、本当にやりたいことなら行動に移すのは価値のあることだし、願望に欠けていても、自分に合っているかもしれないと思えるのなら、それはどこかで効率よく前に進むことのできる要素として、背中を押してくれるものだと思う。人からあなたはそれをするのに向いていると言われたことが動機で物事を初めても、自分から生まれた動機でない限り、それはもろいものになるだろうと思う。どちらを選ぶかは自分でしかなく、やってみないとわからないもの。そういうことはどんな昔の奈良時代や江戸時代にだってみんな同じなはずなんだ。自分が望んで行動をはじめ、無我夢中の時期を過ぎた頃に、冷静に自分を見ることができるかというとその判断はたやすいものではない。願望は強ければ強いほど、より早く到達したいという願望に駆られ、自分を肯定したいために意地という力が働いたりする。「生かす」というのは、もっと 深い気がするのだ。最終的に言うと、自分を生かせているかという問いに、即座に答えられるようなものでもない気がする。第三者がみると、そういう評価ができるかもしれないけれど、自分を生かすというのは、そうしているつもりでも、”私は自分を生かしました”などと 言ってしまうと、逆に嘘くさくなってしまうのも、仕方ないかもしれない。いつの頃からか、私は自分を遊ばせるということをどこかで真剣にするようになっているように思う。思うようにならないことのなかで、意外と自分の知らない能力や才能がひそんでいるかもしれないというスリルを持っていたいと思うからです。答えを早く求めるというのは厳禁です。自分にもわからないことですからね。だから、まわりのことも大切になってくる。自分を生かしているのは、自分だけではないと言うことが見えてくると、見えなかったものが見えてきたりして、そういうときはありがたいなと思う。自分の力を信じるというのも、どこか自分を生かすというのと似ている気がする。