Ballet Top


1.きっかけ( バレエシューズとの出会い )
もうあとひと月で10歳になるというある春の日、友達が習い始めたという バレエのお稽古場にくっついていったのが 初めての出会い。バレリーナにすごく憧れていたとか 両親の勧めがあったとか言うものはまったくなく なんとなく いいなぁ〜 くらいだったような気がする。 新入生にもかかわらず、年齢も 背の高さも上で、発表会では 上手いという理由ではなく まわりとの釣り合いから 役がつくことが多く 男役や 悪役になることが多かった。自分の中では それに 結構はまっていた。綺麗な衣装が着たいという願望も たいしてなく まわりの友達が喜んでいるのを見て あまり羨ましいとも 思うこともなく その役に なりきることに夢中だったような気がする。凝り性の性格はこの頃から 発揮され 自分の着る衣装は 自分の納得いくまで 手直しをした記憶がある。中学校に入る頃には まわりから バレエをしている子 という イメージで 見られるようになっていた。週に2回のお稽古が 楽しみでしかたなかった。中学3年のときに ジゼルの全幕の稽古にあけくれていた真夏のある日 あまりに喉が渇いて 一日に 缶ジュース(360cc)を 8本も 飲んだ すごい記憶がある。高校の夏休みになると 一日中稽古場にいられるのがうれしくてしかたがなかった。この頃から 一人で行動することが 増えてくる。 春休みや 冬休みには 東京に出かけ 発表会で 出演してくださった先生などを頼りに 稽古を受け始めた。バレエ団という 大きな組織の中で たくさんの 素敵なダンサーに混じって 大いに 刺激を受けたのも この頃。


2.将来( このままでいいの? )
高校生になった頃から 自分の将来を考え始めました。今思うと おかしいのですが かなり マイナーな 発想からのものでした。 その頃があまりにも 充実していて 幸せすぎて 怖い! というのでしょうか・・ ある日 ふと こんな 状況は決して続くはずがない。これから 私の前には いろんな壁や 試練が訪れるはず、その時のために 今のこの時期を のほほんとしているだけでは いけないんだ! と かなり真剣に思いだしたのです。(といっても この年齢のこと 具体的に 何をしたというほどのことはないのですが)まぁそのくらい真剣に バレエが好きだったわけです。このまま歳をとっていくと、いつか 踊れなくなるときがくるんだろうなとふと思い始めると、どんどん 想像してしまって 私がこんなに今幸せを感じていられるというのは これから どんなことがあっても それに立ちむかうことのできる心構えを 養ってるんだと。 年齢ということではなく 怪我やいろんな状況が理由で 続けることができなくなることだって あるだろう。そのときには それを受け止められる自分でいたいとも 思っていた。今思うとかなりかわっていたみたいだ。だから 今を 悔いのないように 思い切り 踊りたいと思うようになると同時に、もし何かが起こったとしても、自分にできる自分にしかできないことで バレエに関わる仕事ができるのではないかという発想を持ち始めました。それ以外に なにか きっかけになることが あるとすれば その頃、母の 知り合いの 私と同い年の息子さんが それまでほんとうに 元気だったのに 突然、病に襲われ 亡くなるということが ありました。私は その方とは面識もなく、母からその話を聞くことと、後に お母様がその息子さんのことを綴られた 一冊の本を 読んだことくらいでしたが、それまで 人の死というものを 身近に感じたことのない私には 誰にでも 起こるのかもしれない事として とても衝撃があったことを 今も覚えています。その息子さんが 最後まで生きぬいた様子を 知り 私も 同じように自分の人生を生き抜くんだと 熱くなっていた自分が 今は なつかしく思い出されます。


3.衣裳( 私のこだわり )
もともと 小さい頃から 自分の手で物を作ることは 好きだったようです。母に言わせると どんなことでも 2度目には こうして 3度目には ああやってと 工夫をして 試すのが好きだったらしいですが、自分の将来のことを考え始めた 高校生のころ、衣装を真剣に 縫えるようになろうと思いました。いつの日か 踊ることができなくなったときにでも 踊りに関わる 今までの自分の経験を生かせることができるようにという そんな思いから 始めたのです。まずは 自分の衣裳を 分解して 型紙を取り 自分の気に入るように 型紙を 直したり そんなことからでした。その頃 私の先生のところで 衣裳を担当しておられた方は、バレエを踊った経験はなく、宝塚歌劇団の衣装の下請けかなんかで 作っておられる方で、人のいい とてもやさしい方で、記憶にあるのは、いつも発表会になると 当日も 衣裳が間に合わなくて 楽屋で 汗をいっぱい流しながら 縫われている姿でした。当然 その頃の私は その人にものを言える立場ではなかったのですが 子供なりに もう少し ここの ゆとりがあると 踊りやすいのに とか このカット 野暮ったいなぁとか いろいろ 思い出したわけです。ことあるとその人に近づき 少しづつ いろんなことを教わるようになり その人も 面倒くさがらず 私の興味を面白がってくださり その人のお手伝いもするようになりました。まったくの独学でしたから 専門の人が見たら 目が点になりそうなことを たくさんしていたと思います。着易さ といっても 普段着る服とは違い 体中を動かすわけですから、ゆとりの取り方も 微妙で 素材によっても かなり調整をしなくてはいけないことや、舞台上で 見たイメージを 頭において あるときには かなり大胆に 作業をしないと 客席からは 何の効果のないこと うまくいったと思っても 照明があたったとたん  色の効果が 予想のものとまったく違ってしまい 自分の顔のほうが真っ青になったりして、気に入る色の素材が見つからないときは、大きな鍋を火にかけ、染めることも するようになりました。こうして舞台芸術の 奥深さに またしてもはまり込んでいったというわけです。こうやってだんだん 自分の作る作品の衣裳は 自分のイメージで作りたいと思うようになり 人の衣裳も どんどん作るようになりました。今は舞台の衣裳を作るということは ないですが パリの 生地専門店などに行くと 昔の その感覚が よみがえり この生地で こんな衣裳を作るといいなぁ〜とか 思いながら 見ています。そして その頃のお陰で 今は 時々 服の注文を受け お小遣い稼ぎをしているというわけです。なんとか 経験が無駄にならないでいるみたいです。


4.生徒から先生へ( 私えらくなったん? )
高校3年になって まわりが自分の進路を決める頃 私は 何の悩みもなく このままバレエの先生になるというのが ごく自然なこととして 受け止めていました。大学に行ったとしても いずれは バレエに専念するのなら 無駄なお金を使うこともないという考えでした。父にすると 一度くらいは 就職をして 一般常識を身につけて欲しいと思っていたのではないかと思うけれど、もうすでにその頃には 代理で子供を教えていたりもして、すでに 土台があるものを 無駄にすることもないと 思っていました。ただ良く考えてみると、生徒から先生になるために 何かを勉強したということはなくて ただ自分が今まで踊っていたから という経験だけで 先生になっていいものかと 思いましたが わたしの先生も そのつもりで私のために 予定も組まれていたので そのまま流れにまかせて 教えることになったわけです。でも この時の この疑問は その後、私が踊りを踊っていく中で たびたび 脳裏を 横切ることになりました。 踊りが踊れることと 指導することとは 近いようで でも どこかで区別しないといけないところがあるような気がして、悶々としていたように思います。そして 後に 自分のメソッドとして 教えだしたときに 大きく影響し 大事な要素になったと思います。人によると先生と呼ばれることに優越感を 感じる人もいるかも知れないけれど、私は 責任という意味では、人の体を預かるわけだから 大変なことだと思っていました。指導を始めた頃は、小さい子供達の 母親にすれば、自分よりも ずっと若い人に 自分の子供を預けるわけだから、不安であったであろうけれど、”もっと こう指導したほうがいい”などと いわれるときには やっぱり踊りの経験より 人生経験なのかな?と、ただ謙虚に言われることに耳を傾け、ありがたくその言葉を 受け止めないといけないのかなと 思って過ごした時期でもありました。ほんとうに 誰もが言うように、教えるということは 教わることと紙一重であり、その互いの信頼感は、いろんな形で 踊りの中に現れてくるのだろうと 思いました。



5.どうして?( 誰も教えてくれないこと )
指導をするようになり 大きな 合同祭などにも 出演するようになり、今度は ほかの先生達のところの 生徒さんとも ひとつの舞台で いっしょに踊る機会にも 恵まれました。それまでは 一人で 東京に 稽古に行くことはあっても 舞台に出演するということはなかったので 興味津々でした。白鳥の湖 胡桃割人形 眠れる森の美女 シンデレラ シルフィード シェヘラザード などの 全幕ものの大きな作品で ソロのパートを踊らせてもらい そしてオーケストラという経験も 貴重なものでした。いつも 20団体ほどの バレエ研究所 バレエ学校 バレエ団から 選ばれた人達が 集まり、自分の踊りもさながら 人の踊りを 食い入るように 見ていたのを覚えています。初めて出会う先生方もいろいろで、中には いつも 自分の生徒を大声で怒鳴りつけるように指示される先生もいて、私は自分の先生との違いに驚き、びくびくしてその様子をうかがい、その先生が 私たちほかの生徒には 極端にやさしくされたりする時に どう対処すればよいのかと 目を白黒していました。こうして少しづつ この「バレエ界」と言うものに触れていったことになります。良い作品を作リあげるために みんな真剣に取り組み緊張感で 空気が張り詰めているのと同時に 先生達の間で それとはまた違う 少し異様にさえ思える人間関係が複雑に からんでいるように思えて 何か見てはいけないものを見ているような 怖さがありました。未だに 日本のバレエ界というものが どういう仕組みになっているのかは よくわからないけれど 大きな目に見えない壁が あるのを感じました。この何年か後に 私が 外国に出かけ 外からこの様子を見たときには 踊りという表現の場が、人間同志の中で起こる 利害関係によって 本来あるべき 表現の自由という部分で 大きな圧力をかけられ、生徒個人の持つ可能性や才能が出場所を失ってしまっているようにさえ思えました。そして、さらに後、海外の様子を 知るようになって これは日本にかぎらず どこにでも 出てくる問題であることだと理解するようになると同時に、やはり それでも日本の中でのそれは、昔からの日本の文化の中にあるしきたりのようなものと どこか 絡んでいて どうしても西洋で生まれたバレエというものが 日本では真似事の域を出られないような そんな複雑な気がしました。